第63話 (第2章)「事件」(六月三十日・夕刻)(7)

 豆初乃の前にエクレアが置かれた。

「さあ、素早く口に入れて!速く!」

 慶次郎は笑顔で豆初乃を急かした。豆初乃は、慶次郎の気遣いが分かって、涙をこらえながらエクレアを口に押し込んだ。泣きそうになっているので、むせる。それでも、エクレアを押し込んだ。

「イライラや悲しみには、血糖値を上げることですよ」

慶次郎は、更にエクレアをテーブルの上に置いた。

「おや、確かによく似ておられますね。豆初乃さんのお母様に。ほっそりとした輪郭、切れ長の目、きれいな形の唇、細くて筋の通った鼻梁……往年の女優、嵯峨美智子さんにもよく似ておられる。美しい方です」

と、まるで今気づいたかのように慶次郎は取ってつけた。エクレアを頬張ったままの豆初乃は、目を白黒させる。

「なっ、なんでうちのお母ちゃん、紅乃お姉さんも、慶次郎さんも、知ってはるん……」

口の中がいっぱいなのと涙で、豆初乃はまともにしゃべれない。

「あんたのお母ちゃんは、あんたが雪駒家に来た後に、一人で訪ねて来はった。うちの娘をよろしくお願いします、って。『私がふがいないばっかりに、友世はまだ子どもやのに一人で遠いところへ行かせてしまった』、って」

豆初乃は初めて聞いた。なんとも言えない気持ちがこみ上げてくる。エクレアを飲み下そうとしている間に、慶次郎が続けて口を開いた。

「そうですねえ、うちのお店にもご挨拶に見えましたよ。きっと雪駒家へご挨拶に伺われた後でございましょうねえ。『うちの娘をお助けいただいたということでほんとうにありがとうございました』と。『そのことを友世が京都に舞妓の修行に行くまで知らずに大変に失礼しました』ってね。手が荒れておられるのを気にして、手を隠そうとされていたのが印象的でした。ほんとうによく似ています。美しい方ですね」

 豆初乃は喉が詰まって息が苦しくて涙が出た。

「……っ勝手なことして……!うち、そんなん聞いてへん。余計なことして、うちはお母ちゃんの助けなんか」

 豆初乃はエクレアを飲み下して、涙とともにハアハア肩で息をしながら、言った。

「勝手なことして……!!」

テーブルの上に置いた手をいつの間にか握りしめている。それがわなわなと震えるのを止められなかった。

 震える豆初乃の手に、白くて美しい手がそっと添えられた。豆初乃は色が白い方ではない。紅乃の手は、透き通るように艶があって、しっとりと温かった。

「豆初乃さん、あんな、あんたのお母ちゃんを許してあげい、って話をしてるんとちゃうんやで?勘違いしたらあかんで」

豆初乃はぼうっと紅乃を見上げた。

「うちは、あんたのお母ちゃんかって苦労したんやさかい、とか、そういうことを言うつもりはおへん。あんたとお母ちゃんの関係は外からは分からへん。あんたは、家を出て行かへんと生きられへんのや、という覚悟でここへ来たんやろうし、厳しい修行を涙ひとつ見せずに乗り越えてきたことで、その覚悟はよう分かっといやす」

しっとりした指が豆初乃の手を包み込む。

「ただな、あんたのお母ちゃんと常世田奈理子と言うお人ががよう似てはることで、あんたが奈理子はんに騙されてはんのんとちゃうか、ということと、あんたのお母ちゃんが挨拶に来はったということは、それはそれで事実なんや」

豆初乃は涙でぐしょぐしょになった顔のまま、紅乃がゆっくりと言い聞かせてくれることを聞いていた。

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