第59話 「事件」(六月三十日・夕刻)(3)

 慶次郎が、席を立って紅茶を淹れ直す。

「そやな、ちょっと休憩しよか。豆初乃ちゃん、なんやケーキとかもらい。あっ、水無月があるやん。今日は六月尽やし水無月もらお」

紅乃は息を吐いて、首を伸ばした。首をトントンと拳で叩く。鬘は重いのである。

「あっお姉さん、今日はお座敷やったんとちゃいますの」

豆初乃は、時間を気にして言った。豆初乃は、今日はお稽古だけでお座敷はかかっていない。芸妓が鬘をつけて装っているということは、お座敷があるということなのである。

「ああ、今日はお座敷は遅いねん。昼も早よから鬘をつけてるんは、ちょっとお呼ばれが昼間にあったさかい。その帰りに、あんたの天下の行動での大立ち回りに行きおうたんや」

紅乃がふざけて言った。

「ええ~大立ち回りやなんて……まだしてません!」

豆初乃は砕けた雰囲気にほっとして、ふくれて言った。

「まだ、やって?ほな、そのうち立ち回りするんやな?」

紅乃は、水無月を菓子楊枝で切りながら、言った。

 甘い水無月を口に入れると、豆初乃は少し気持ちが落ち着いた。

 そういえば、お客さんが誰も来ない。豆初乃は店内を見回した。もう1時間以上経っているのに、誰も入ってこないなんてことが不思議だった。

 慶次郎は、不思議そうにきょろきょろする豆初乃に説明した。

「今日は、もう閉店の札を出しているのでございますよ。込み入った話でございますからね、変な噂が立っても困りますし、誰にも聞かれないようにね」

豆初乃は慶次郎の配慮に頭が下がる思いだった。未熟な自分がトラブルばっかり引き起こしていることに、小さくなる思いだった。

「うーん。そやけど、これの狙いってなんなんやろな。巾着引ったくり事件も、女紅場のロッカールーム荒らしも、この指輪を狙ったもんなんやろけど。そもそも指輪が偽物なんて……」

紅乃は、腕組みして砕けた調子で話していた。

「豆初乃ちゃんに指輪を押し付け、さっきのホストが絡んで来たときにもいた女性が、常世田奈理子っていう人やったとして」

祇園紅茶室にも置いてあった『着物画報』の三月号を見ながら言った。

「うーん。間違いないやろね。雰囲気はまるで違たけど、あの服の上質さと振る舞い方は、代々のお金持ちのお嬢様やなあ」

豆初乃には分からないことを、紅乃は断言した。

「そやけど、元田君らといはった女性は、車の人とまるで雰囲気が違いましたし。車の人はほんまに上品なお嬢様って感じで。もしかしたら違う人かも……」

と食い下がる豆初乃に、慶次郎は言った。

「豆初乃さん、上品な立ち居振る舞いは中身を伴うわけじゃないんです。紅乃お姉さんは、上品な立ち居振る舞いの仕方がどういうものかよう分かってはるんです。一朝一夕で身につくものやないということも、よう分かってはるんですよ」

珍しく諭すような慶次郎の言い方に、豆初乃はちょっと身を引いた。慶次郎に、こういう言い方をされたことはなかった。その慶次郎が断言するのだから、きっと紅乃の言うことは本当なのだ。そう思わせるだけのものがあった。

 紅乃は目を伏せて、奈理子の記事から目を上げない。

 ―――そうや。うちは、紅乃お姉さんのことを全然知らんのや。紅乃お姉さんが、どうして舞妓にならはったか。紅乃お姉さんがどういうところで育たはったんか。うちは、紅乃お姉さんが、伝説の舞妓やったとか、芸妓の今も贔屓筋が多いとか、そういうことしか知らんのや……。

 黙り込んでしまった豆初乃に目をやって、紅乃は口を開きかけてやめた。

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