第57話 「事件」(六月三十日・夕刻)(1)

(六月三十日・夕刻)


「うちがお母さんに言うておくし、お茶飲んでいこか」

紅乃は、祇園紅茶室へ豆初乃を誘った。

「いらっしゃいませ、ちょうどお客さんが途切れたところですよ」

慶次郎はそう言って、二人を穏やかに迎え入れた。今日もアイロンの効いた白いシャツに蝶ネクタイに老眼鏡という変わらない出で立ちだ。

「少しお待ちくださいませね」と、慶次郎は微笑んで、扉の外に一度出た。


シュンシュン……。静かなお湯が沸く音だけがする。沈黙が痛い。

 まるで、三年前の再現みたいだと豆初乃は思った。三年前も、こうやって紅乃お姉さんにこの紅茶室に連れてきてもらった。あのときも、お湯が沸く音以外は何の音もしない、静かなお店だった。

「うん……いい香り……」

黄金色の液体が注がれたいつものカップを、紅乃が口元へ持って行き、香りを吸い込んで言った。

 店の中に、紅茶のよい香りが漂う。豆初乃は祇園紅茶室に来て初めて、紅茶の香りがこんなにも強いものだと知った。それまでに飲んだことのある紅茶はペットボトルの甘い味のするものだった。こんなに強くて深い香りがして、またその香りもゆっくり楽しむものなのだということは、豆初乃は知らなかった。

「さ……話してもらおか、何があったんか」

 豆初乃は、今日三度目の既視感を味わった。まるで三年前に言われた台詞と同じだった。同じ席だった。あの日も、ショックで呆然としている自分を紅乃と慶次郎は、祇園紅茶室へ連れてきてくれて、温かいお茶を出してくれたのだ。

 違うのは、あの日は冷たいおしぼりが差し出され、涙でぐちゃぐちゃの顔を拭くように言われたことだった。

 まだ中学三年生の友世だったときは、ただ黙ってうつむき首を振ることしたできなかった。自分の育ちが恥ずかしくて、情けなくて、誰も信じられなくて。

 でも、今は全然違う。豆初乃は思う。

「長くなるんどすけど」

 豆初乃が切り出すと、す、と厨房に戻ろうとする慶次郎の気配が感じられた。

「あ、慶次郎さんも一緒に聞いてやってくれしまへんやろか」

紅乃が、慶次郎を引き留めた。

お湯の沸く音が急に聞こえ始めるのは、返事をするはずの人が沈黙したからである。

「……よろしいのでございましょうか?大事なお話ではないのでしょうか」

二呼吸くらい置いてから、静かに慶次郎は返した。

「一緒に聞いて欲しいんどす。慶次郎さんのお知恵をお借りしたいんです。そして、事の発端を慶次郎さんは知ってはるんどす…………たぶん」

紅乃は、ひとつひとつを自分に確認するように、ゆっくりと話した。

豆初乃は、話しているときに突然、ハッとした。

(もしかして、あのこともあのことも、あの指輪と関係があるのだろうか)

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