第56話 「事件」(六月三十日・昼)(4)
豆初乃は思った。三年前もこうだった。
修学旅行に来た京都で、豆初乃は同級生だった元田真輔たちに絡まれたのだ。それも、この花街だった。
「お前の母親のせいで、俺の一家はめちゃくちゃになった。俺の人生もめちゃくちゃになった。お前らのせいだ」
忘れようとしていたのに、耳にあの日の元田の罵倒が蘇る。
そして、あの日も紅乃お姉さんに助けてもらったのだ―――。
「お前っ……あの時の」
手を伸ばせば届く距離まで来ていた金髪少年は、紅乃の登場で明らかにたじろいだ。彼も、三年前のことを思い出したのだ。
二、三歩、後ろに下がった後、道の向うを振り返った。集団の力に頼ろうとする本能だった。しかし、ホスト集団は加勢しようとはしなかった。
芸妓がひとり増えただけである。この芸妓が、マンガのようにホストをバッタバッタと投げ倒すとは、誰も思わなかったであろう。しかし、天下の公道で芸妓に絡むこと自体が、自分たちにとって不利であることは、ホストの誰もが分かっているようだった。分かっていないのは、年少で個人的な怒りに目が眩んでいる元田少年だけである。
余裕を漂わせて、紅乃は後ろのホスト集団に視線を移した。
リーダー格の男は、ヒュウ、と口笛でも聞こえてきそうな口の形をして事態を見守っていた。紅乃は、男の顔は無視して、ゆっくりと瞬きしながら、ホストに腕を絡めている女を見た。
奈理子は、紅乃を認めた瞬間、般若のような表情をふっと消した。一切の感情を消したような無表情になった。そのまま、紅乃を睨むでもなく豆初乃に視線を移すでもなく、唐突に踵を返した。
突然、腕をほどかれたリーダー格のホストは、驚いた顔で奈理子の行方を目で追った。ハイヒールで町家の並ぶ路地を去っていく奈理子の後を、慌ててリーダーは追っていく。
突然、グループの中心だった男女が去ってしまったことに気づいた他のホスト達も、泡を食ったような顔で二人を追う仕草を見せた。
いつの間にか通りの真ん中まで下がっていた元田少年も、踵を返した。
「……覚えていろよ」
小さな声で負け惜しみを投げつけ、慌てて通りの向こうへ走り出していった。
突然、駆けだした元田にぶつかられた観光客が驚いたり、声をあげたりして、あたりは少し騒然とした。
「……なに?」
「……舞妓さんが絡まれてた?」
周りのささやき声が聞こえてきて、豆初乃は我に返った。
「紅乃お姉さん、あの」
豆初乃はどうしていいのか分からず、紅乃を巻き込んだことが申し訳なかった。
「ほな、帰ろうか」
紅乃は、慌てる豆初乃にうっすらと微笑んだ。肩に置いた手をぽんぽん、と二回、叩いた。
「はい」
豆初乃はそれ以上何も言えず、うつむいた。
紅乃が静かに歩き始める。雪駒家はその路地を曲がって、もう少し行って、すぐそこだ。前を行く紅乃の後に、豆初乃は続いた。
紅乃お姉さんの足取りはどんなときも美しい。そして、いつも窮地を救ってくれる。
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