第47話 (第2章)「事件」(六月十五日)夕刻(1)
(六月十五日・夕刻)
休日の夕方は、屋形の自分の部屋で本を読んだり勉強したりする。それが豆福の至福の時間だった。
その日は、借りて来た「坊ちゃん」を早速読み始めた。お行儀悪くひっくり返って読む。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。」
文蔵の言う通り、声に出して読んでみると、確かに歯切れがよかった。花街の言葉とは全然違うのが面白かった。年末の歌舞伎の顔見世総覧で見る歌舞伎を思い出す。難しい漢字ばかりだけれど読み仮名が打ってあるので、豆初乃にもつっかえつっかえながらも読むことができた。
(歌舞伎の台詞も何を言っているのか全然分からないけれど、こういう本をたくさん読んでいったら、いつか聞いただけでわかるようになるのかなあ)
「なぜそんな無闇をしたと、聞く人があるかもしれぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から顔を出していたら……」
歯切れの良さもさることながら、主人公の大胆さと痛快さを気持ちよく感じた。
「同級生の一人が冗談に、いくら頑張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃し立てたからである……」
バサッ。
二階から飛び降りようとしたところで、夢から覚めた。顔に本が落ちてきたのだ。
仰向けになって本を読んでいるうちに眠ってしまったらしい。剛胆で猪突猛進な主人公の振る舞いにスカッとするあまり、夢の中で自分も二階から飛び降りてやろうとしていたようだ。
豆初乃は首を振りながら起きた。家の中は静まり返っている。
階段を降りる。夕方の日差しが台所に差し込んでいた。階下にも誰もいない。
「にゃー」
いつのまにか、猫の大福が豆初乃の足に頭をすりつけていた。豆初乃が大福を抱き上げると、「にゃあ」と再び鳴いた。
(富春はんも福春はんも、もう支度してお座敷に出かけはったんかな)
大福を抱いたまま、冷蔵庫から冷えた京番茶を取り出す。自分のコップに注ごうとすると、大福が腕から飛び降りて行った。もう、京番茶を煮出して置いておく季節になったのだ。
冷房をかけていなければ二階の夕方はかなり暑い。乾いた喉に、一気に京番茶を流し込む。
(薬っぽい味……)
京番茶の味は京都に来て初めて知った。夏になると、朝のうちに大きなヤカンで煮出しておく。お湯が沸騰したら、枕くらいのサイズの大きな袋から、ガサガサと大きな茶葉を取り出して、ヤカンに放り込む。そして冷えるまで置いておく。
豆初乃はその味になかなか慣れることができなかった。しかし、今ではこの味が癖になるのだ。暑くなったらこの味でなければ、落ち着かなくなっていた。
一気に飲み干した後、もう一杯をコップについで食卓に座る。
食卓は広めの台所の中心に置かれていた。仕込みさんの間は、お母さんとお父さんと仕込みさん仲間と一緒に食卓を囲む。舞妓になってしまうと落ち着いて食卓で食べるのは朝くらいで、時間もまちまちになる。だから、食事をとる別の部屋があるわけではなかった。
豆初乃は、整理整頓された炊事場にぼうっと目をやる。豆初乃の実家は、整理された台所がなかった。ここの台所に来て、空気の気持ちよさに驚いたものである。流れている空気が違った。
食卓に肘をつくと何かに当たった。雑誌だ。「着物画報」の三月号、四月号だった。
(富春ちゃんが置きっ放しにしたのかな。お母さんのかな)
着物の柄や季節の話題、旬の食べ物などは、流行などはとても勉強になるので、よく誰かが買っているのだ。豆初乃はぱらぱらとめくって―――息が止まった。
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