第46話 (第2章)「事件」(六月十五日)(5)

 豆初乃は、恐れながらも、文蔵の表情を確かめようと顔を上げた。

「あの……?」

豆初乃がおずおずと言うと、文蔵は初めて気づいたようにうなずいた。

「続きがあるかと思って待っていました」

拍子抜けする答えが返って来た。豆初乃はマンガのようにずっこける。

豆初乃がずっこけていることは文蔵の注意を引かなかったようで、文蔵は急に向きを変えた。リュックをドサッと下ろし、しゃがみこんで中を探り出す。

文蔵の唐突な動きにつられて、豆初乃もしゃがんでリュックをのぞき込んだ。

「えーっと……」

彼は豆初乃ものぞきこんでいることを気にせずに、がさがさとリュックの中をかき回す。リュックの中には十冊以上の本が、雑然と詰め込まれていた。

「あっ、これこれ」

文蔵が豆初乃に差し出したのは、一冊の本だった。

「坊ちゃん」

文蔵は、満面の笑みで題名を読み上げた。

「読んだことある?」

豆初乃は首を振った。中学校の国語の授業で耳にしたことがあるような気がするだけである。

「この本はね、文章がとにかく歯切れがよくて、話すように書かれているんだ。声に出して読んでみるとすごく楽しい。ぜひ声に出して読んでみて。切れ味の良い江戸っ子ってこんな感じなのか、ってすごく面白いよ」

文蔵は、ニコニコしながら本を差し出して来た。

豆初乃は感動した。本当に本が好きな人は、こんな風に他人をバカにしたりしないんだ。たくさん読んでいる人は、本当に本が好きな人は、たくさん読んでない人を笑ったりしないんだ。

「……おおきに。貸してくれはるんどすか?」

豆初乃は、河原にピンクのジャージの膝をついて本を受け取った。決して厚くはない本だった。でも、たくさんの細かい字が並んでいた。

「夏目……」

豆初乃が作者の名前を読みかけて詰まると、文蔵が続けた。

「そうせき、って読むんだ」

「へえ、こんな漢字で、そうせき、なんて読むんどすか。石なんて漢字が名前に入ってるんですねえ。変わった名前どすなあ」

「そうせき、はペンネームなんだよ。本を書くときの名前で、彼の本名は夏目金之助って言う」

「はあ……まあ、そうですわねえ。石が入ってる名前をつけはるなんてねえ」

「このペンネームにはちゃんと由来があるんだよ。中国の古い文書に由来があってね……『石を枕にして、川の流れに口をすすぐ』って言おうとした人が、間違って『石に口を漱いで、川の流れを枕にする』って言ってしまったんだよ。間違ってるよ、って指摘に、その人は『石に口をすすぐのは歯を磨くためで、流れを枕にするのは耳を洗うためだ』って、間違いを認めなかったんだよ。石に口を漱ぐ、っていう漢字が『漱石』なんだよ」

「へえ……そんな由来があるんですか、文蔵さんはほんまによう物を知ってはるんどすなあ」

豆初乃が感心して言った。

「いえ……僕はまともに女の人と話もできないような人間で……。あの、豆初乃さん……ですよね。あの紅茶屋さんの店主が言ってました。あの人、すっごく強いですよね。僕はあのひったくりに一発で倒されちゃったのに、あの人が一発でひったくりを倒してくれて……」

 文蔵は、顔を赤くしながら視線をきょろきょろさせて話した。

「そうどす、豆初乃と申します。よろしゅう御見知り置きを」

豆初乃はいつものとおりににっこりとわらって挨拶をした。途端に

「ぷっ」

と文蔵が笑った。豆初乃はなんで笑われたのか分からず、

「なんですのん」

と問うと、くつろいだ笑顔で学生さんは言った。

「いや、ほんとうに、あの日の舞妓さんなんだな、と思って。今の豆初乃さんは、運動選手にしか見えません。あの舞妓さんとは全然重ならないんだけど、でも、話し方とか仕草とかは、ほんとうに舞妓さんなんだろうな、って」

 豆初乃は、自分がすっぴんでジャージ姿であることを、再びすっかり忘れていた。ピンクのジャージで、花街の言葉で舞妓らしい仕草をする自分を想像して、豆初乃は恥ずかしさに顔に血が上った。

「いや、うちは、いえ、私は、舞妓のときはほんまに舞妓らしくしよ、と思ってて。プライベートは誰にも分からへんように、舞妓の気配を消してるんです!河原を本気でジョギングしてるのが知られたら、豆初乃とか舞妓のイメージを壊しますやろ?」

豆初乃は真っ赤になって言い訳した。

「確かに」

笑いをこらえながら、文蔵は続けた。

「舞妓さんのイメージを壊さないプロ根性なんですね。確かに、上下ピンクのジャージで顔にサンバイザーをかけた人が、河原で本を読んでいたら、誰も舞妓さんの隠れたる姿だとは思わないですね」

 二人はいつのまにか河原に並んで座っていた。その日は、昼時になるまで本の話をした。豆初乃は、文蔵の「平日の昼間はよくここにいるから、本はいつでも気が向いたときに返してくれたらいいですよ」という言葉に甘えて、本を借りた。

 豆初乃は、何よりも本の話を存分にできるのが嬉しかった。もっともっとたくさんのことを、文蔵から教えてもらおうと思った。借りた本が熱を持っているように感じた。

豆初乃は、文蔵と話をしていた間は、指輪のことを完全に忘れていられた。

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