第44話 (第2章)「事件」(六月十五日)(3)
「うちのこと、分からはらしまへんのかも知れへんのやけど」
豆初乃は、再び笑顔で話しかけた。
(すっぴんのときに男の人と話すのは、気後れすることが多いけれど、このお人は気が楽に話しかけられる。あまりにこのお人がびびってはるからかもしれへん。男の人は、お父ちゃんや同級生を思い出して、ちょっと怖い。舞妓の着物やお化粧をしているときは、鎧を着ているようなもんで、どんなことにもびびらへんで済むのやけど)
「ひと月ほど前に、うちがひったくりに遭いそうになってるときに助けてくれはったお人ですやろ?」
できるだけ優しい口調で話しかけた。仕込みになったばかりのときは、「きつい口調やから直しなさい」と口を酸っぱくして言われた。
豆初乃の優しい話し声と口調に、学生は打たれたように顔を上げた。
(やっぱり柴犬みたい。目がキラキラしてなつっこい)
「え……確かに、そういうことがありましたが……、あなたは……?」
学生はおどおどと問いかけた。
「うち、あのときの舞妓ですねん。あのとき、巾着を取られそうになったときに、助けてくれはって、ほんまにおおきに」
「ええっ」
学生は大げさに驚く。
(そんなに驚かなくてもええやん……)
「確かに、舞妓さんをお助け……いえ、僕は殴られて気を失っただけで、何の助けにもなってませんでしたが……」
学生は、口の中でもごもごと言った。
「僕は気を失っただけで……却ってご迷惑を……」
「そんなことあらしまへんて」
豆初乃の笑い声に、真剣な顔を上げて学生は問うた。
「ほんとうにほんとうに、あなたはあのときの舞妓さんでいらっしゃるのですか」
堅苦しい言葉使いに驚きながら、豆初乃は「へえ、そうどす。豆初乃です」と答えた。
「そうですか……」
未だに信じられないような顔をして、豆初乃を上から下まで見つめた。
「僕は、文蔵恵一と申します。K都大学の経済学部の三回生です。その節は失礼いたしました。あなたさまにおかれましては、お怪我等はございませんでしたでしょうかっ」
「へええ。慶次郎マスターからお聞きしてはいましたけど、ほんまにK都大学の大学生さんなんどすなあ。すごおすなあ」
豆初乃は、経済学部が何をするところかも知らずに、ただただ感心していた。
(やっぱりK都大の学生さんともなると、難しい話し方しはるし、なんでも知ってはんねんなあ)
「うちは、おかげさまで大けがはなかったんです」
「おかげさまというほどに、僕は役に立っていません。大けがとは、中くらいのけがはなさったということですか。それとも軽いけがをなさったということですか。『けがはなかった』と仰有らないということは、なんらかのけがをなさったということですよね」
豆初乃はぽかんとした。こんなに理屈っぽく長い台詞は、豆初乃の日常には無い。それも、表情も変えずに、豆初乃から目を離さずに。
「すごい……」
豆初乃は尊敬のまなざしで、文蔵の顔を見つめた。文蔵は、豆初乃の表情にいぶかしげな顔をしている。
舞妓らしい仕草で、口元に手をもっていく。持っていった手の先の感触がゴワゴワしたジャージの袖口だったので、豆初乃は慌てて手を後ろ手に組みなおした。
「あ、あの、ちょっと手のひらをすりむいただけで。ほんまに大したことなくて。紐を握ってたさかい、紐を強く引っ張られて」
へどもどしながら、豆初乃は手のひらを学生に見せた。豆初乃は、身に付いた仕草で可愛らしく手のひらを見せた。
「うん……?確かに、すこしすりむいたようですね」
文蔵は顔だけを豆初乃の手にぐぐっと近づけて、かなり無理な体勢で豆初乃の手をのぞきこんだ。かなり腰を曲げて、豆初乃の手のひらを観察している。首だけを突き出した態勢だ。
「ぷっ」
豆初乃は笑いがこみあげてきた。
「なんですか」
真面目な顔で、文蔵は豆初乃に訊いてきた。
(どこにも媚びがなくて、どこにもかっこよさがない。こんなに素朴な人っているんだな)「いえ、ほんまにおおきに」
「今回はけがが大きくなくてよかったですが、もしああいうことがよくあることなら警察に届けないと」
「へえ、おおきに」
豆初乃は、お礼を言いながら、彼の持っている本が気になっていた。
「その本……」
豆初乃は文蔵の持っている本を指した。文蔵はつられてその本に目をやる。
「うちが助けてもらったときに持っていはった本やね」
文蔵は、自分の持っている本を持ち上げた。
「陰影礼賛―――でしたか、あの日持っていたのも」
「へえ」
「本がお好きですか?」
文蔵はまっすぐに豆初乃に訊いてきた。豆初乃は、どきっとしてうなずいた。
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