第43話 (第2章)「事件」(六月十五日)(2)

(遠くに来た……)

 豆初乃はそう思いながら、流れて行く水面を見つめた。

 ふと目をあげると、六条の橋の方から歩いてくる人が目に入った。見覚えがある気がして、豆初乃はじっと見る。

チェックシャツにチノパン、黒ぶちメガネに、手に本を持って読みながら歩いて来る。

(K都大学の学生さんだ。陰影礼賛の)

 豆初乃は思わず声をかけていた。

「あの」

チェックシャツの彼は、豆初乃に声をかけられて、文字通りすくみあがったように見えた。豆初乃は自信が無くなり、立ち上がって、じーっと彼を見つめた。サンバイザー越しだとよく見えないことに気づいて、外した。

 チェックシャツ、チノパン、黒縁のメガネ、流行を意識していない学生らしい髪型、170㎝くらいの中肉中背。よく見ると、メガネの奥の目はつぶらな可愛い目をしている。

黒くてつぶらで……ジョギングでよく会う柴犬みたいな目だ。うん、この人だ、と豆初乃は確信した。こういう感じの人はいっぱいいるけれど、あの日、ひったくり男に一発で倒された人はこの人だ。

「あのですね……」

豆初乃がもう一度声をかけると、

「ひっ……」

 学生は変な声を出した。手に持っていた本を胸にあてて、豆初乃から後ずさりした。

「あの」

豆初乃が近づくと微妙に体をくねらせて避けようとする。豆初乃はおかしくなった。柴犬さんの顔は引きつって、目が泳いでいる。豆初乃を目で追っているのに、豆初乃が顔をまじまじと見つめると、目が泳いで逃げていく。

(こんなに恐がりなのに、あのとき、勇気を出して助けてくれたんだなあ)

豆初乃はしみじみと思った。嬉しさがこみあげて来る。

「あの、うちのことを分からはらへんかも知れへんのやけど」

 豆初乃は自分がそう言ってから、気づいた。自分が今、舞妓の恰好をしていないことに。舞妓の格好どころか、すっぴんで日焼け止めだけを塗りたくり、サンバイザーは外したものの、薄い眉毛に短くてまばらな睫毛、細い目に肉の薄い顔、日焼けしなくても少し日焼けした肌色、薄い唇の自分の顔を思い出した。とにかく全体に薄い顔なのである。そこへ、髪の毛を頭のてっぺんでお団子にして、全身ピンクのスポーツウェアを着ている人であることを思い出した。舞妓とは結び付かない格好である。知り合いですら豆初乃だと分からないことで定評がある。それが、豆初乃のプライベートを完全に守っているのでもあるが。

 「驚かせてすんまへん」

豆初乃は態度を改めて、学生に声をかけた。彼は、おずおずと豆初乃の顔を見た。

 豆初乃はちょっと彼が可愛らしく思えた。

(K都大学の学生さんやのに、ものすごく賢くてなんでも分かってて、どんなときも冷静に対処できるんやろに、うちがピンクのジャージで眉毛が無いからか、怖がってはるんや)

「ふふっ」

豆初乃は思わず声が漏れた。学生は一瞬、笑った豆初乃に視線を走らせたが、豆初乃がそちらを見ると、光の速さで目をそらした。

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