第42話 (第2章)「事件」(六月十五日)(1)

(六月十五日)


 ひったくり未遂事件、ロッカールーム荒らし事件からひと月以上経つと、事件はすでに忘れ去られようとしていた。どちらの事件も何も解決はしていなかったが、日常の中に紛れて行き、花街は平穏無事な日常を取り戻していた。

 季節は六月の半ばになり、舞妓の衣装もより夏らしく変わっていた。

 着物は単衣になり、舞妓の花かんざしは柳と撫子に変わった。梅雨らしくすっきりしない天気の続くなかで、花街の衣装はより涼し気なものに変わっていった。

 豆初乃の二週間に一度のお休みの日は、運よく晴天だった。

豆初乃は日本髪をほどいて洗った。乾かした長い髪の毛をお団子にして、ピンクのスウェットの上下を着こみ、日焼け止めを層になるほど塗りたくって、完全に顔を覆うサンバイザーをつけて、鴨川ジョギングに繰り出す。体力作り。それが豆初乃の休みの過ごし方だった。

鴨川も四条大橋を過ぎて下がると、鴨川名物と言われる等間隔で並ぶカップルが集う場所からは離れる。人はそれほど多くない。川の流れは緩やかになり、中州にサギが、川面には鴨が数羽泳いでいる。三条あたりや出町柳あたりのように、トンビが何羽も旋回している恐怖もない。

「ここらへんかな~」

 軽くジョギングをした後、豆初乃は独り言を呟きながら、腰を下ろした。五条大橋にほど近い鴨川の西岸である。小型リュックを下ろしてから、ストレッチを始める。ランニング後のクールダウンは丁寧に行う。

この姿を見て、誰がこの少女を舞妓だと思うだろうか、という出で立ちである。

「ふう」

 一息ついて、水分を摂る。

 ―――スポーツジムに行くべきかなあ。紅乃お姉さんはマシンで筋肉トレーニングしているって言ってたなあ。体力がつくと精神的に粘り強くなれる場合もある、って言ってはった……

 豆初乃は川原の石垣の上に、ピンク色のスウェットの足を投げ出した。

 チュンチュンチュン。うるさいくらいの鳥の声が、川面を走る風に乗って聞こえてくる。どこで鳴いているのか、風の向きによって近くなったり遠くなったり。

「……」

 豆初乃はぼんやりと、下流を眺めた。遠くJRの電車が橋を渡っていくのが見える。

 故郷の糸魚川の風景とはまるで違った。新潟では、こうやって昼間にぼんやりと川べりに座っていることなど考えられなった。いつも、弟とおばあちゃんの世話に追われていた。貧乏だったから、いつも一時間かかる安いスーパーまで自転車を漕いでいかなくてはならなかった。新しいスポーツウェアを手に入れられることなど無かった。何もかもが無かった。友世には、何もかもが無かった。時間もお金も満足に食べるものも、勉強する環境も、安定した生活も、愛情も。

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