第41話 (第2章)「事件」(五月三十日)(2)
「―――本、本を見せてもらおかな、うち、本を読ませてもらいますわ」
慶次郎の言葉に、不意に目頭が熱くなりそうになった豆初乃は、誤魔化して立ち上がった。壁の二面を天井まで占領している本棚に近寄る。
豆初乃はふと目を止めた。
「陰影礼賛」
なんて読むのだろう。確か、引ったくりから助けてくれようとした学生さんが持っていた気がする。
「これはあの学生さんの持っていた本、なんて読むの?」
と豆初乃は、素直に訊くことはできなかった。小学校でも中学校でもちゃんと勉強をしていない自分を恥じていたから。訊いても怒られないか、訊いてもバカにされないのか、いつも不安に思っているから。
「それは……いんえいらいさん、ですね。目が高い」
慶次郎が、豆初乃が眺めていた本のタイトルを読み上げてくれた。
「あの親切な学生さんが持っておられましたね」
豆初乃は、慶次郎を見て頷いた。慶次郎さんも学生さんが持っていた本を見ていたのだな、と思いながら。
「豆初乃さんは読んだことがありますか?」
豆初乃は、黙って首を振る。
こういうときに豆初乃は、ふさわしい振舞いというのが分からなかった。
その本が多くの人が読んだことがある本なのか、見当がつかないのである。読んだことがない、と言うのも恥ずかしかった。読んだことがないのに読んだことがある振りをするのも恥ずかしかった。その本が有名な本なのかどうなのかが分からないことも、恥ずかしいのだった。今回は、更に、慶次郎が気を利かせて本の題名を読み上げてくれたことが恥ずかしく、気を利かせてもらわなければ本の題名が読めないこと自体が恥ずかしいと、豆初乃は思った。
黙っていると、慶次郎が口にした。
「読んだことがないことは素晴らしいことです。この本に初めて触れる歓びを、これから体験することができるのですから」
慶次郎は棚から「陰影礼賛」と題名のついた薄い文庫本を取り出した。カバーはなくなって薄茶色の本体だけになっている。祇園紅茶室にある本は、古い本が多い。もともとお客さんから持ち込まれる本を、慶次郎が大事に補修しながら置いているからだ。
「どうぞ、手にとってごらんください」
豆初乃の手に文庫本が置かれた。
「わたしは、この本の内容に高校の教科書で初めて触れました。とても素晴らしいと思います。特に、羊羹について書かれた部分が」
「羊羹、ですか?あの、羊羹?」
「そうです。羊羹の美しさについて書かれているのです」
「へえ……」
すごく敷居が高く、すごく難しいものだと気後れしていた豆初乃は、興味をそそられた。羊羹について書かれているなら、自分にも読めるかも知れない。
「日本の家は、昔は外からの光があまり入らないようになっていて、そのなかで発達してきた女性のお化粧についても触れていますよ。舞妓さんや芸妓さんのお化粧にも通じるものがあると思いますよ。勉強になると思います。ぜひ読んでごらんないさい」
豆初乃は目を輝かせた。助けてくれたK都大学の学生さんが読んでいた本を、自分も読めるのかも知れないということに、豆初乃は嬉しくなった。豆初乃にとって、難しい大学に行っている学生は、雲の上の存在なのだった。
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