第40話(第2章)「事件」(五月三十日)(1)
(五月三十日)
豆初乃はそれ以降、どこに出かけるにも、一人で出歩かせてはもらえなかった。必ず誰かと連れ立って稽古や挨拶回りに行き、帰りも必ず送迎がつけられた。それが功を奏してか、豆初乃の周りで危険なことは起こらなかった。
女紅場学園のロッカールーム荒らし事件は未解決のままだったが、豆初乃の周りでは危機感が薄れてきていた。
引ったくり事件から、二十日経った五月末には、豆初乃は紅茶を一人で祇園紅茶室に行くことが、照子お母さんから許された。
「豆初乃さん、お久しぶりでございます。お元気でお過ごしですか?」
豆初乃がドアを開けると、慶次郎と和美が笑顔で迎えてくれた。午後一時という時間帯のせいか、お客は豆初乃一人だった。
「―――あの節は、ほんまにありがとうございました」
豆初乃は深々と頭を下げた。
「いえいえ、そんな。頭を上げてください。当然のことをしたまでですから。それよりも、初夏のメニューを新しくしましたし、読みかけの本もたくさんあるでしょうから、ゆっくり過ごしていってくださいね」
慶次郎は、いつもと変わらぬ温かな笑顔で座席に導いてくれた。
「そうそう……、照子お母さんからお聞きになったと思いますが、引ったくり犯に伸された青年は、病院で検査してもらって何ともなかったようですよ。お礼も断られて、『あの舞妓さんに怪我がなかったなら、何よりです』と言っておられました。気持ちのいいお人でございました。K都大学の学生さんらしくて、たくさん持っておられる本が散らばってましたね」
豆初乃が知りたいであろうことを、慶次郎はさりげなく教えてくれるのであった。
豆初乃は、その学生に直接会ってお礼を言うことは出来ない。仕事以外で妙齢の男性と接触することがあっては、噂が立つのである。それは御法度なのである。だから、本来なら自分で御礼を言うところを、置屋のお母さんが代わって挨拶に行くのだ。
「ご本人が仰有るには、運動はからっきしダメでケンカもしたことがないそうですが、『本から目を上げたら、目の前で揉み合っていたので、勇気を振り絞って割り込んだ』そうでございます。『なんの役にも立てなくて恥ずかしい』とも仰有っていました。良い人でようございましたね……」
慶次郎は、初夏の新メニューの薔薇の紅茶を注ぎながら話を続けた。
「そうどしたか……」
豆初乃はそれ以上の言葉が出てこなかった。
―――良い人でよかった。
「豆初乃さんが、初めてこのお店に見えたのも、その一年後に二回目に見えたときも、この季節でしたね。外のつる薔薇が咲いていました」
「そうどすなあ……。二回目は紅乃お姉さんに『自分で挨拶しなさい』って言われましてん。『あの時は、ありがとうございました』って、うちが言うたら、慶次郎マスターは『そうですか、あの時の……。よく来はりましたね』って、それ以上は何も言わはらへんかったんですよね。よう覚えています」
豆初乃は、思い出しながら微笑んだ。深く詮索しないけれど気持ちに寄り添ってくれる、ということの温かさを、豆初乃は花街で初めて体験したのだった。
「そんなことを申し上げましたでしょうかねえ。年寄りは物忘れが激しくて、困ってしまいます。……ここまでよう頑張られましたね」
慶次郎は、豆初乃の頼んでいない小菓子を静かに置いて、言った。薔薇の形に作られたクッキーが、貝殻型の皿に乗せられていた。
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