第39話(第2章)「事件」(五月九日・深夜)
(五月九日・深夜)
午前一時を回った頃に、豆初乃の携帯電話から雪駒家に連絡があった。他の二人の舞妓の富春と福春は午前零時頃に帰宅していた。
「お父さん、最後のお座敷は紅乃と一緒やったから、紅乃がタクシーで送ってくれるらしいわ」
照子は、勝文に豆初乃の迎えが必要なくなったことを伝えた。
そうこうしてる間に、表で車の音が聞こえた。
「お母さん、お父さん。豆初乃はんをちゃんと送り届けましたえ」
紅乃は、タクシーを待たせたまま、雪駒家の玄関まで豆初乃を送って来た。
「ああ、紅乃ちゃん、おおきにな」
照子と勝文は、いまだに「ちゃん」づけで呼んでいる。
「紅乃ちゃん、もう遅いし、今夜は泊まっていったら」
照子は、いつでも紅乃に泊まって行くことを勧める。実際に、紅乃は泊まっていくこともある。特に、豆初乃が仕込みになったばかりのときと、店出しをしたばかりの頃は、紅乃はよく泊まりに来てくれていた。「遅くなったから」と言って、豆初乃や雪駒家を助けるために泊まってくれていたのだ。紅乃のその好意に豆初乃が気づいたのは、豆初乃が舞妓になって半年ほど経ち、紅乃が雪駒家に泊まらなくなってからだった。
「おおきに。そやけど、明日早いし。タクシーを待たせてあるし、また今度」
紅乃はそう言って、タクシーに戻っていった。
見送る豆初乃たちに、紅乃はタクシーの窓を少し開けて軽く会釈をしてから、車は発進した。遠回りして豆初乃を送ってきてくれた紅乃は、これから三条東大路のマンション帰るのだ。豆初乃はテールランプが遠ざかるのを、さみしい気持ちで見送った。
それを察してか、照子お母さんが豆初乃の背中に手をそっと当てて、家に入るように促した。
「紅乃お姉さんは、元気にしてはったか?」
照子は玄関の扉を閉めながら、声をひそめて訊いた。富春と福春はもう寝ているのだ。
「へえ。今は何に力をいれてお稽古しているのか、とか、大福はどうしてはるんか、とか、そういうことを訊いてきはって、短いけど楽しい時間どした」
紅乃は、タクシーの中でもどこでも不用意な話は決してしない人だった。何故、豆初乃を送っていくように雪駒家のお母さんに頼まれたかについて、豆初乃に尋ねるようなこともなかった。何があっても、何もなかったかのように振る舞う。豆初乃は、そういう強さに憧れていた。
しかし、紅乃の「何事もなかったのようにふるまう」態度ゆえに、豆初乃は指輪のことを言い出す機会を持たせなかった。
「そうか。また、紅乃にも泊まってもらおうな。そう言えば、引ったくりにあって一発で倒されはったお人なあ、ご挨拶に行ってきたんやけど。何ともなかったんやって。K大学の学生さんなんやって。本をようけ持ってはってな、ええお人でよかったなァ……」
照子お母さんは、豆初乃の背中に手を添えたまま、世間話をしながら玄関に上がった。
五月の夜が更けていく。
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