第30話 (第2章)「事件」(五月九日・午前中)(6)

 一階の床に勢いづいたまま着地する。豆初乃は、美津子師匠が階段の半ばにいるのを確認して、間髪を置かずにロッカールームへ走り出した。舞妓とは思えない、優雅さに欠ける走りである。

 階段を降りたところを右手に折れると、短い廊下の突き当たりにロッカールームがある。豆初乃がスピードを出し過ぎて遠心力で外に膨らみながら曲がった先には、既に多くの人が群がっていた。ロッカールームに駆け付けた人たちである。

 学校職員や先生、お稽古が終わった人たちでごった返していた。

 「どうしはったんですか?!」

 息を切らしながら豆初乃が駆け寄っていくと、一番後ろにいた和装の男性が振り向いた。

「あれっ、なんでこんなとこに」

 豆初乃は、自分の目的も一瞬忘れて男性の顔を指でさした。

「これっ、師匠に向かってなんて口の利きようや!おまけに指さすなんて!指下げなはれ」

 豆初乃に気づいて振り返った女性職員が、慌てて豆初乃の指を下げさせ、ついでに頭も押さえて下げさせた。

「すみまへん、若師匠。近頃の若い妓はほんまにしつけが行き届いてませんで。ほれ、豆初乃さん、あんたもいいかげんにしよし。敬語も使わへんで」

「へえ、すんまへん」

 豆初乃は押さえられるままに頭を下げた。ここでも豆初乃はいくらでも頭を下げるのであった。

「ああ、ほんまにお気遣いなく。まれに見る元気溌剌さで売れっ妓の豆初乃さんですやろ。この世界は売れるのが正義ですさかいに」

 観月若師匠は嫌みとも本音ともとれるようなことを、柔和な笑顔で言った。柔らかな生粋の京都弁と優しい笑顔に職員がうっとりとしているのは、豆初乃にも分かった。

(この人が騒がれるのもわかるわ)

 豆初乃は、押さえられた頭の下から、二人を見上げながら思った。

(うちの紅乃お姉さんとはどういう関係なんやろ……)

 昨日の二人の意味深さを思い出しながら、押さえられた頭から手の力が緩むと、その手の下からしげしげと観月若師匠の顔を観察した。

 年は三十代半ばくらいに見える。子供の頃から厳しい修行をしている能の家の御曹司。顎がしっかりとした輪郭に、切れ長の目、少し垂れ眉。笑うとけっこう八の字眉毛になる。真面目な顔のときと、笑ってクシャッとなったときの顔の印象のギャップが大きい。真面目な顔で舞を舞っているときの怖いような顔は殺されそうで、くつろいで着物の袖の中で腕組みをして、むしろ間抜けづらをして立っているときは犬みたいだ。

 ときどき、テレビドラマで着物を着る役をやっているらしくて、若い舞妓から八十歳のお姉さんまで大人気なのは知っている。というか、豆初乃は周りから聞かされる。豆初乃自身はテレビを見るよりも稽古をしたくて、観月若師匠をテレビで見たことはなかった。

 穴が開くほど見つめる豆初乃の視線に気づいた観月若師匠は、口の端に笑いを残したまま肩をすくめて小さな声で言った。

「そんなに見られたら減るから、見るのはほどほどにしておいてください。あんまり見ると、惚れても知らんで」

(はい?惚れても知らんで?って言った?)

 豆初乃は大きくない目を丸くして、鼻に皺を寄せた。

(昨日、紅乃お姉さんと意味深な雰囲気を醸しだしまくりで、今日、ここ昼日中でそういうことを言う?それも能楽の御曹司でしょ?清潔で有名な御曹司でしょ?稽古の虫で、きりっとした顔に飛び散る汗がしびれそうで、指先まで神経の通った踊りの名手。謡の声もよくて、テレビでも存在感が違う、って人じゃないんですか?どの口がそんなことを言っているんですか?)

 豆初乃は心のなかで、激しく悪態をついた。

「はいはい。そんな顔しなくても、冗談デスヨー」

棒読みで観月若師匠は舌を小さく出した。明らかに豆初乃をからかっているのだ。

「それより、豆初乃さんは、騒ぎを見にきたんとちゃうんか?見んでええのんか?」

若師匠の言葉にハッとして、豆初乃は自分の用事を思い出した。

指輪……!

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