第31話 (第2章)「事件」(五月九日・午前中)(7)

 「どう―――どうなってますのん?何が起きたんですのん?」

豆初乃の問いに、若師匠は無表情に「見りゃわかる」と顎でロッカールームをしゃくった。上品で名高い若師匠とも思えないがさつな動きである。本来はこういう人なのかもしれないが、いつのまにか豆初乃も福波たちの憧れの王子様像に影響されていた。

 ―――何やって?教えてくれてもええやんか!

 ただ、何かの惨劇の場面が広がっているのではなさそうだということは分かった。豆初乃はフンっと横を向いて、人混みをかき分けてロッカールームの入り口にたどりついた。

 「豆初乃さん、あとで話がありますからね!」

美津子師匠も追いついて、小言を言いながら、豆初乃の後ろについて人ごみをかき分けて来た。

 ロッカールームの中を覗き込んだ豆初乃の目に飛び込んできたものは、色とりどりの虹色の床だった―――。

 というのは豆初乃の目の錯覚で、生徒たち―――舞妓や芸妓―――の巾着や練習着の帯や襦袢がそこら中にばらまかれていたのである。それも、最も目を引くのは、巾着も帯も襦袢もものによっては裂かれて小さな布切れになっていることだった。それが色とりどりに散乱しているので、まるで錦を散らした床のように一瞬見えたのだった。

 「―――なにこれ―――」

呆然とする豆初乃が呟いた声に、かぶさるように美津子師匠の冷静な声が響いた。

 「警察を呼びなさい」



 警察が来ると不名誉で商売に響く、と抵抗する一部の先生をおしのけて、美津子師匠は警察を呼ばせた。

「生徒を守るためです。屈してはなりません」

と言い切った美津子師匠の迫力は誰にも否と言わせなかった。

 警察が来る前に、大騒ぎにまぎれて豆初乃はロッカールームの中に入った。自分の携帯電話を取り出す。緑の八つ橋型のストラップは笑顔で揺れていて、外から触れてみるとゴツゴツとした指輪が触れた。

 豆初乃がほっと息をついたところに、

「豆初乃はん、職員室まで来とおくれやす」

美津子師匠が後ろに立っていた。

「携帯電話以外は、そこに置いたままで。警察が車で、現場はできるだけそのまま触らないで」

「美津子先生……す、すんまへん」

「言い訳は職員室で、聞きますさかい」

有無を言わさぬ美津子師匠の迫力は、豆初乃にも発揮されたのである。



(五月九日・昼過ぎ)


「はあ……」

豆初乃は、ため息をついて女紅場学園の校舎を出て、校門に向かった。

あの後、慌しく警察が来て、生徒たちは全員退出させられた。今日のお稽古はすべて中止になったのである。

しかし、豆初乃は美津子師匠に一時間もこってりと絞られて、反省文を書かされてた。なぜ、指示を守らずにロッカールームまで駆け付けたのか、階段の手すりを滑り降りるとは何事か、と問い詰められた。他に、観月若師匠を指さしたことも、しっかりと報告されて、教職員一同に絞られた。

「まあ、家が貧乏やから自分の荷物が気になった、という話はわかりました。そやけど、階段の手すりを滑り降りるなんて言語道断です」

警察に美津子師匠が説明を求められるまで、説教は続いた。豆初乃はただただ小さくなっているしかなかった。

 「……そう言えば、観月若師匠はどこ行かはったんかな?警察が来る前にいなくなってはった……」

豆初乃は、彼が女紅場学園にいた理由は、職員室でもはぐらかされて教えてもらえなかった。

(警察が来る前に姿を消したのかな。そういうことを嫌いそうだもんね)

 豆初乃は、紅乃が今日に限って来ていなかったことも気になっていた。稽古熱心でも、用事があれば生徒は毎日来るわけではないが、紅乃が姿を見せないことは稀だった。

 先日からいろんなことが一気に起こり過ぎて、豆初乃は頭がいっぱいだった。荷物は、警察の現場検証が終わるまで、ロッカールームから動かせなかった。豆初乃が残されて幸運だったことは、巾着を持ち帰る許可をもらえたことだけだった。

 巾着の布の上から八つ橋のストラップに触りながら、豆初乃は校門を出た。。

そのときである。

 「ごめんな……」

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