第24話 第1章「謎の始まり」 五月七日・深夜(2)

泥のように疲れているから、後ろから迫ってくる黒い影みたいなものが振り払えない。気づいたら肩に黒い影が手をかけているように感じる。

ほら鏡に映る自分の肩に黒い手が見えた―――気がしたと思ったら、目の錯覚だった。

「疲れているんだ―――」

 友世は顔を振って巾着の中を引っかき回して、携帯電話を探した。明日の稽古の予定を確認するために。頭を花街に来てからの人生にだけ戻さないといけない。糸魚川のことは考えないのだ。

 取り出した携帯電話の先で、緑色の八つ橋のストラップが揺れる。友世はハッとした。

 ―――指輪。

 忘れていた。豆初乃として舞妓になっている間は、完全に忘れていた。

一気に昼間のことを思い出した。誰にも何も指摘されなかった。あの指輪のことは誰も気づいていなかったのだろうか。

本当に?あの車にはねられそうになったことについて誰からも何も言われなかった。雪駒家のお母さんと紅茶店の二人しか知らないことになっていて、噂になっていないのだろうか。あんなに飛ばしていた車のことが?

 豆初乃は、さっきまで友世の人生に引き戻されることに鬱々としていたことは忘れて、指輪を取り出してしげしげと眺めた。

今は―――緑色だった。出かける前は確かに赤かった。

自然とあの女の人のことが思い出された。

 あの人―――きれいな人だった。すごくきれいな人だった。すべての女性の理想って、あんな感じじゃないのかな……。誰かに似てるような気がしたんだけれど、女優さんとかかな……。

 豆初乃は疲れているからか、立ち上がって空想をやめることができなかった。

 きっと、本当に困っていたんだと思う。誰かに追われていたって言ってたし、手も唇も震えていた。すごくきれいな手で、あんなにきれいな手は見たことがない。テレビコマーシャルに出てくる手だけのモデルさんみたいにきれいな手だった。私にもわかるくらい、上品な振る舞いで、きっとすごく高い車に高い服だと思う。すごくきれいな色のハイヒールだった。あんな人があんなにおびえて、たまたますれ違っただけの私に指輪を預けていくくらいだもの。悪い人に追われてるは本当だと思う。かわいそうなんだ……。

 友世は、指輪を見て空想にふけっていた。あの女性の美しさを思い出していた。この色の変わる宝石のように、不思議な人だった。

「だけど……この指輪、どうやって返したらいんだろう」

 豆初乃はあの女の人に聞きそびれた疑問を口にした。

―――きっとこれ、高価な宝石なんじゃないかな。色が変わる宝石なんて初めて見た。だけど、これはいつまで持っていたらいいんだろう。


「お風呂、早よもらいよし」

 豆初乃を呼ぶお母さんの声が聞こえた。

「はあい」

空想を破られて、豆初乃は指輪を再びストラップの中に隠した。

着物を衣桁にかけて、部屋の電気を消した。肌襦袢姿で巾着だけを持って衣装部屋を出る。

「にゃー」

豆大福が足元に体をすり寄せて来る。

「豆大福~、一緒にお風呂入るかあ?」

白にグレーのぶちが入って豆大福にそっくりな姿で、豆初乃の後ろを鳴きながらついてくる。

雪駒家は、お座敷を持っていない住居だけの屋形である。お座敷も兼ねている御茶屋とは違うから、肌襦袢姿で歩いても、猫の豆大福が廊下を闊歩していても問題ないのである。

今、舞妓1年目は豆初乃だけで、豆初乃より後輩は見習いが一人いるだけである。雪駒家には、豆初乃も含めて同じ年に五人が仕込みとして入ったが、舞妓にまでなったのは豆初乃一人だった。

「お風呂もらいますねー」

 豆初乃は誰にともなく声をかけて、脱衣所に入った。豆大福も脱衣所にまで入って来た。

 「豆大福ぅ、お前も入らはるんか?」

話しかけながら抱き上げる。

「……うん、きっと方法があるんやろな。きっと取りに来てくれはるやろ。豆大福もそう思うやろ?」

豆初乃が豆大福に話しかけると、にゃー、と鳴いた。

豆初乃は、あの女の人の優しい微笑みを思い浮かべた。

二十代後半……三十代かも知れない。優し気できれいで、また会ったら、天女様のような笑顔で微笑みかけてくれるんだ……。

豆初乃は、ふふっ、と笑いながら浴室の扉を開けた。

 豆初乃はいろいろと想像しながら、階段を降りていった。さっきまでの、友世に引き戻される嫌な感じはみじんもなく消えていた。


(第1章 終わり)

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