第14話 第1章「謎の始まり」 五月七日・夕刻(4)

店出しの日から八カ月。着付けが角井さんでなかった日は、一度もない。

舞妓は自分で衣装を選ぶこともあるが、豆初乃はまったく着物のことがわかっていなかったこともあり、日々、角井さんが選んでくえれる衣装を参考に勉強の毎日だった。

角井さんの衣装選びは、いつも評判で、どの芸妓もいまだに角井さんに相談することで有名だった。角井さんは舞妓や芸妓の衣装に通じている。京都の四季に合わせ、また先取りして季節の到来を楽しみにさせ、花街の行事と伝統を踏まえて、文句のないものに仕上げてくれた。

「あんたは角井さんについてもらえて幸運やな」

と、多くの人に言われた。素直な賞賛、羨望、そしてやっかみ半分に。角井さんはしっかり仕事をするために、たくさんの芸妓さんを受け持てないと言っていた。しかし、豆初乃は紅乃お姉さんの妹だから、と特別に引き受けてくれたのだ。

 ふと指輪のことが思い浮かぶ。豆初乃は軽く頭を振って、追い払う。今は仕事に集中しないと。

「―――何かありましたか?」

 豆初乃が肌襦袢姿で大きな鏡の前に立つと、濃赤の衿をかけた襦袢を後ろから着せかけようとした角井さんが手を止めて訊いた。

「え?」

 豆初乃は内心で怯んだ。指輪のことは表情には出していないつもりだった。

「いえ……なんか変ですやろか」

声が震える気がする。鏡越しに自分の顔をじっと眺めている角井さんの視線が痛い。目を合わせることができない。

指輪は携帯ストラップの中に入っている。気づかれてなどいないはずだ。事故に遭いそうになったことくらいは、お母さんから聞いているかもしれないけれど……。

豆富士が色々と考えを巡らせているところに静かな声が響いた。

「今日は肩に力が入っています。よく見て」

 後ろに立った角井さんは、豆初乃の肩を上からぐっと押して、鏡に正対させた。

「自分でよく見てください」

豆初乃は強い角井さんの声に押し出されるように、鏡の中の自分を見た。肌襦袢に包まれた肩が縮こまって上がってしまっているために、首が埋もれている。何かにおびえているようだ。

「……あの」

豆初乃が口を開こうとするのを、角井さんは遮って言った。

「何があったかは問題やありません」

角井さんは豆初乃の両肩をぶ厚い手のひらでググッと下へ押した。豆初乃の肩が強引に下に押し下げられる。それと同時に首がすっと伸びる気がした。胸が開く。すうっと息が入ってくる。思わず、はああ、とゆっくりと息が吐かれた。

「わかりますか?肩が上がると息を詰めてしまうんです。舞妓の着物はとにかく幅が広い帯を締めます。息を詰めて帯を着けると、苦しくて仕方ありません」

角井さんはそう言いながら、鏡の中の豆初乃を見つめてくる。豆初乃はやましい気持ちになって思わず目をそらそうとする。

「ちゃんと見てください。何があっても、お座敷に出る以上は、何事もなかったかのように振る舞わなければなりません。お客さんは高いお金を払って、楽しみに来られるのです。何事かあって、心ここにあらず、気もそぞろの、目も合わないお人形さんに会いに来られるわけではありません」

 豆初乃はハッとして、そらしかけていた目を上げた。鏡のなかの角井さんの目と視線がぶつかる。角井さんは、口の端を少しだけ笑った。豆初乃もつられてニッと笑う。角井さんの笑顔を見ることはほとんど無い。でも、たまにこういう、鋭い顎の線にふさわしいニヒルな微笑みが表れるのだ。この、ほんとうにたまにしか見られない笑顔を見たら、まるで戦友のような気持ちになる。いや、戦友なのだ、きっと。角井さんが、豆初乃を引き受けてくれたのは、紅乃お姉さんが、角井さんの戦友だからなのだ。きっと。

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