第13話 第1章「謎の始まり」 五月七日・夕刻(3)

 豆初乃が下の衣装部屋に入っていくと、薄紫に両肩、袖に小花と笹が散らされた着物が衣桁に架けられていた。部屋の中がいっぺんに初夏の風情になる。

「豆初乃さん、おはようございます」

 部屋の端で小物を整えていた角井さんが、座ったままお辞儀をする。舞妓に衣装を着せてくれる男衆さんだ。

舞妓の衣装は通常の着物とは異なり、物によっては長さ5メートルにもなる帯を巻く。自分ではもちろん着つけることはできないし、女性の力ではその帯がしっかり締められないので、伝統的に男衆さんと呼ばれる仕事の人が着付ける。男衆さんは、それぞれの置屋を回ってきて着せてくれる。

角井さんは豆初乃が初めて舞妓として店出しをした日から、ずっと受け持ってくれている。年の頃は五十代半ば、白い物が混じる髪をごくごく短くして身ぎれいにしている。

豆初乃は、こういう植物的な感じの男性を、花街に来るまで見たことはなかった。女性ばかりが表に出る花街であるが、裏方としてこのような男性が支えてくれているのであった。

「まだ五月も始まったばかりですが、今年は暑いですので涼し気な薄紫の着物にしました。衿は濃い赤地に白の波の模様、帯は黒字に水引に大きな菊の模様、簪はこちらの藤の長さ15㎝のものに」

 角井さんはひととおり説明しながら、それぞれの小物を指し示した。

「お化粧、まだなんですね。では、先に手早く仕上げてください」

 角井さんはそう言って、衣装部屋を立ってすっと廊下へ滑り出た。

正座の状態から立ち上がって、廊下へ移動する。流れるように廊下に滑り出た。

豆初乃はいつも、その角井さんの佇まいや動きに感心してしまうのだった。角井さんに比べたら、豆初乃の動きは本当にバタバタと騒がしい。豆初乃は、踊りだけは才能があると言われているが、角井さんの動きを目の当たりにすると、自分がただただ騒々しいだけの人間であることがよく分かった。角井さんはただ座っているだけで、あたりを払うような静かな気配があるのだった。

豆初乃は諸肌脱ぎで化粧を手早くしあげ、肌襦袢を整えてふすまを開けた。

 角井さんは腕組みをして、廊下の全面引き戸のガラスから坪庭を眺めていた。一分の隙も無い。上下黒の作業着で、細身の体には一ミリの贅肉もない。大きくも小さくもない背丈、極くふつうの目鼻立ち。取り立てて言うことのない平凡な容姿なのに、佇まいに風情があった。

夏の終わりの日差しが、坪庭に差し込んでいる。花街らしく、坪庭のすぐ奥は黒塗りの杉板の背の高い壁が続く。風情のある黒い壁。

豆初乃は、最初にここへ来たとき、黒い壁なんて初めてだと思った。それに、立て込んでいるなかで、こんなに高い壁を立てているのは、お互いの生活を覗かせないためだと知って、町中の暮らしというものを自分は全然知らないのだと思った。

 庭を眺めている角井さんは、豆初乃にとって、花街のひとつ象徴でもあった。こういう仕事の男性が存在することを、豆初乃は知らなかった。舞妓として花街に飛び込まなかったら一生知ることはなかっただろう。花街には女性しかいなくて、お客さんは男性しかいない。そういう風に思っている人は多いし、自分だってそうだった。多くの裏方がいて、花街が成り立っているのだということを、豆初乃は花街に来て、肌身で知った。

「お化粧できましたか」

 角井さんが目を上げて、豆初乃を見た。透明な視線。豆初乃はぐっと気持ちが引き締まった。


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