第15話 第1章「謎の始まり」 五月七日・夕刻(5)

「さあ、肩を開いてください。深呼吸して。吸って……吐いて…」

 いつもの角井さんのしっかりとした手順に従って、体を整えて、舞妓の着物を着ていく。

「着物を着せかけます。この着物の柄は、藤色の地色に両肩に花水木の紋様、袖口に若竹です。初夏になりましたので、見る人の目に涼し気な色目にします」

「帯を締めます。この帯は黒地に大きめの流水紋です。銀箔で冷たい輝きがあり、見た目の涼しさを演出します。だらりの方は大きな波の紋様が同じく銀箔で重なって豪華です」

「かんざしはこの時期は、藤の花かんざしです。豆初乃さんは舞妓1年目なので、垂れ下がる房は長く多くあるものです。2年目になると、もう少し減らしていきます」

角井さんはひとつひとつを解説してくれる。どの模様にも由来があり、意味があり、膨大な積み重ねのうえにあることが角井さんによって淡々と語られる。

その目標は、お客さんに一期一会の夢を見せること。だから、具合が悪いような顔を見せてはならない。夢の存在であること。それが舞妓の努めであると、角井さんはいつも豆初乃に教えた。


 豆初乃が最初に、角井さんに会ったときに、角井さんは上から下まで豆初乃を眺め回して、表情も変えずに、控えていたお母さんと紅乃お姉さんにかすかに頷いた。紅乃お姉さんが何も言わなくても、部屋の空気が気味悪いほど張り詰めていて、ここは正念場なのだと豆初乃も覚悟した。何かが決まるのだと、豆初乃も分かった。そして、角井さんが端座したまま、かすかにうなずいた瞬間に、部屋の空気がどっと緩むのを感じた。緊張の糸が一気に切れたような。豆初乃は合格したのだった。

 そして、直後に角井さんに言われたことはひとこと。

「豆初乃さん、踊りや三味線だけではなく、勉強をしてください。なぜ、この着物を着るのか、どうしたら自分がより美しく見えるか、高く売れるか、誰に必要とされているのか、考えて勉強してください」

 角井さんにそう言われて、豆初乃は驚いた。勉強?あれほど勉強はいらないとお母ちゃんやおばあちゃんに言われたのに?花街でも勉強が必要?


 しかし、豆初乃は心に響くものがあり、その日からずっと勉強をしてきた。勉強をしても無駄だとあきらめた中学2年のときから、勉強らしい勉強をしてこなかったが、角井さんの覚悟の瞳を見て、勉強をしたらなにかが見えるような気がして、勉強を続けてきた。


「この帯の模様は大振りの流水紋ですが、豆初乃さんは細身で立ち姿がシュッとしていますので、宝尽くし等の可愛らしい柄よりも映えます。六月になれば柳にまつわる衣装となります。七月になると祇園祭なので特別なかんざしになりますが、豆初乃さんは勝山はまだ早いですね」

 静かな衣装部屋で仕上がっていく舞妓の装い。

「勝山はまだ早い……?」

豆初乃は何のことか分からず、繰り返した。角井さんにだけは訊くことをためらわなかった。

角井さんは、絶対に「そんなことも知らないのか」と豆初乃に説教をするようなことはなかった。プロとして通用するためになら、なんでも吸収しろ、と言う人だった。豆初乃は、花街に来るまでは訊くことを恥ずかしいと思っていた。いつも嘲りの言葉とともに、教えてもらえはしなかったのだ。知らないことは恥ずかしいことだと感じていた。

「去年は、先輩舞妓の富春さんもまだ勝山に結ってはりませんでしたしね。3年目以降の舞妓さんが、祇園祭の時期だけに結う髪形です。豆初乃さんは再来年ですね。つまり、今、豆初乃さんが結っている割れしのぶからおふくに髪形が変わってから、ということです」

「ああ、そうやった……。去年、他の家のおふくを結うてはる方をお見掛けして、お母さんに教えてもらいました。なかなか身に付かへんのどすな」

 豆初乃は反省しながら言った。

「さあ、きれいな舞妓さんのできあがりや」

 角井さんはそう言って、豆初乃の肩を軽く叩いてくれる。出陣の合図だ。

 豆初乃は鏡のなかの自分を見る。

 白塗りの顔、後れ毛ひとつない髪型。指先まで塗られた白粉。はたかれた白粉のにおい。豪華な紅葉の着物。揺れるかんざし。

大丈夫。舞妓の顔をしている。今から仕事をする顔をしている。

「はい」

 豆初乃は、下唇だけ塗られた口を少しあけて返事をした。

「いざ、出陣じゃ―――稼いで参ります」

豆初乃の動揺はおさまっていた。


結局、あの指輪がなんだったのか分からない。なぜ、自分が受け取ってしまったのかも。あの女性が何だったのか。あの女性が豆初乃に何かを思い出させたことも。

何もかも、プロフェッショナルの舞妓として振る舞うことに徹することにした。何もかも忘れる。

 ―――あたしは、豆初乃。雪駒家の稼ぎ頭の舞妓。稼ぎにいくで。

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