第11話 第1章「謎の始まり」 五月七日・夕刻(1)

(五月七日・夕刻)


「おかえり」

 ごくごく優しい京都訛りでおっとりとした声が、豆初乃を出迎えた。お母さんの胸に抱かれた猫の豆大福が、にゃー、と合わせて鳴く。

「えらいゆっくりどしたなあ。よう羽根伸ばせたんとちゃいまっか?」

他人が聞いたら、遅刻して帰ってきた娘を優しいお母さんが玄関で出迎えてくれてねぎらっているようにしか見えないだろう。

しかし、ここ置屋は違う。「お母さん」と呼んでいても実の母ではない。

豆初乃は他の置屋はどうなのか知らないが、雪駒家のお母さんは、舞妓がお稽古から帰って来ても玄関までいちいち出迎えたりはしなかった。いつも出てくるのは猫の豆大福だけである。

お母さんは、どこかの部屋のふすまから顔だけ出して、

「ようお帰り、早よ支度しいや」

「お帰り、早よご飯食べてしまい」

「お帰り、早やお風呂もらってしまい」

さばさばした明るい声で言われるのが普通だ。お母さんはあちこち動き回っていて、豆大福を抱いていたり、豆大福がついて歩いていたりするけど、玄関で待ち構えているということはない。

 しかし、今、玄関でにっこり笑っているお母さんは、間違いなく怒っている。豆初乃は玄関を開けた瞬間に雷をおとされる覚悟でいたが、こういう方法で来たので余計にびびった。豆初乃は割にがさつな方で、怒られてばっかりなので、お母さんの怒りのバリエーションはよく知っていた。

 お母さんは声を荒げて叱ることはない。怒られることは頻繁でも、豆初乃は怒鳴られたり手を上げられたりしたことはなかった。

実家ではいつも、お父ちゃんに怒鳴られどつかれ、疲れてるお母ちゃんは泣いたりわめいたりして、豆初乃の頬を叩いたりしたので、怒られるというのはそういうことだと思っていた。だから、声を荒げない置屋のお母さんの怒り方に最初はとても戸惑った。

「豆初乃ちゃん、そこにお座り」

「豆初乃ちゃん、あんた、なんで呼ばれたか分かってはるんやろな?」

そういう言葉で呼ばれることが多い。それでも、豆初乃は、雪駒家のお母さんの叱り方が嫌ではなかった。いつも、豆初乃の言い分を聞いてくれるからだ。

「なんで、こないなことしはりました?」

「あかん、って言いましたやろ」

「危ないからや!誤解されたらあんたの稼ぎに響くからや!」

と怒られる理由をハッキリ言ってくれるから、安心できた。

ただ気にくわないから当たるとか、自分の機嫌が悪いから当たり散らす、というムラのある怒り方ではなかったからだ。

 そんなハッキリとものを言うお母さんが、こうやって微笑んでいるときは、ものすごく怒っているときだった。


やばい。豆初乃はさすがに青ざめた。芸妓あがりのお母さんは、若い頃は今よりももっと怖い思いをしたという。だから肝が据わっていた。その人がすごみのある笑顔で怒っているので、びびらない人間がいるはずがなかった。

「あら、祇園紅茶店の和美さんやないですか」

 お母さんが張り付いた微笑みを崩さず、さも今気づいた、というように和美に顔を向けた。和美が来ていることを見逃すお母さんではない。和美も当然そんなことは分かっている。

「あ、豆初乃さんが事故に」

和美が空気を読まずにいきなり核心をついて話し出したので、お母さんも顔色が変わった。

「なんやて」

常に冷静沈着なお母さんもさすがに驚いて、猫の豆大福を放り出した。豆大福が不満気に「にゃー」と鳴く。

「あんた、けがは」

お母さんは足袋が汚れるのも構わず、三和土にさっと降りて来た。

豆初乃の腕をやら腰やらをポンポン叩いて、けががないか確認する。

豆初乃は驚いた。お母さんがこんなに焦った顔は見たことがなかったのだ。

 「おかあさん…」

豆初乃は思わずお母さんの顔をまじまじと見た。豆初乃より少し小さくて肉付きの良いお母さん。おしろいの香りがふっと香って、泣きたくなるような気持ちに豆初乃はなった。気丈に「だいじょうぶや」と言っていた気がふっとゆるんで、思わず涙ぐみそうになる。

(あかん、うちは人前では泣かへんのや)

 豆初乃はぐっとこらえた。

「おかあさん、おおきに」

豆初乃は心を落ち着けるために答えた。声がかすかに震えたかもしれない。でも、きっと恐怖で震えていると思ってもらえるはず。

「けがはしてまへんのどす。撥ねられそうになっただけで、かすり傷ひとつあらしまへん」

「そうか―――そらよかった、よかったわ」

お母さんが豆初乃を抱きしめんばかりの勢いで、よかった、と言う。

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