第10話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(6)
「……あの、うち」
豆初乃が不安げに何かを言おうとした瞬間、
「驚いて手を握りしめ過ぎてしまわはったんでございますね?手が痛いでしょう。踊りに三味線に大事な手ですから心配でございますね。全くけしからん車でございました」
慶次郎は何も気づかなかった声を出した。穏やかでおっとりした声を出した。
豆初乃は何かを隠している。しかし、今それを訊いても良い結果は生まない。慶次郎は豆初乃の不安定さを心配した。しかし、豆初乃が不安定でも当たり前なのだ、と思い直した。
豆初乃はまだ17歳だ。それもたぶん、故郷も親も捨てて出てきたのだ。世間の17歳の多くは、親元で暮らし、何もかも親がかりで文句を言っている頃だろう。自分がそうであったように。ただただ自分の能力を過大に夢見、けれどチャレンジする勇気は無く、引っ込み思案で、親の前ではいっぱしの大人のつもりでいるけれど、悪い人間にかかったら赤子の手をひねるようにだまされる。それが普通の17歳だ。豆初乃はまだ17歳なのだ。
「あ、あの、ほんとうにびっくりして、出てきた女の人、知らない人で、すぐ行っちゃって」
豆初乃は、何も関係ない人だと強調する。
「出てきた女の人は知らない人で」
―――それはそうだろう。ふつう、そうだ。撥ねられそうになった車の運転手が知り合いであることはほぼ無い。
そんなことを言って、何かを隠そうとしている豆初乃が慶次郎には見えた。
「ほんとうに豆初乃さんにけががなくて、ようございました。それにしても」
と慶次郎はその女性のことについては触れず、五月の青空を見上げて、ことさらのんびりと言葉を紡いだ。
「和美さんはあんな顔もされるのですねえ。いつものんびりとした草原の羊のような人だとばかり思っておりました」
慶次郎が笑いながら言うと、和美はむくれた。
「え~!のんびりとした羊ってどんなたとえなんですか。なんか間抜けじゃないですか?」
「いえいえ、これはかなりの褒め言葉ですよ。こんなにも穏やかですばらしい性質はなかなかあるものじゃありませんよ」
慶次郎は笑いながら続けた。
「さ、豆初乃さん、雪駒家のお母さんが心配なさっているでしょうから、お帰りください」
そう言われて、豆初乃は「あっ」と声を上げた。動転してすっかり忘れていたのである。
「和美さん、豆初乃さんを雪駒家さんまで送っていってあげてくださいませんか?」
慶次郎が和美に言う。
「わたくしは店に戻らなければなりませんから、悪いのですけれども」
「え、私でいいんですか?店主じゃなくてアルバイトでも?」
和美が返すと、慶次郎は
「ええ、和美さんにお願いしたいのです。どうぞ頼まれてくださいませ」
と答えた。こういう風に穏やかだけれども決然と言い放つとき、慶次郎は絶対に譲らない。そのことを慶次郎のところで働いている和美はよく知っていた。
慶次郎は決して声を荒げたり、荒々しく物を扱ったりはしない。いつも物腰穏やかで丁寧だ。でも、実はとても厳しい。穏やかに、でも、厳しくなんどもできるまでやり直しを求められる。ふだんは何事も断定しない。しかし決然と言い放つときは、絶対に譲らない。
何度も何度もやりなおしを求められ、それで何人のアルバイトがやめたかしれなかった。和美と交代で入っていたアルバイトは、二週間前に辞めた。働いたのも二週間だった。その前のアルバイトは1ヶ月保った。いまのところ、半年以上続いているのは和美だけだった。
「わかりました。豆初乃ちゃん、いそご。雪駒家のお母さん、きっと心配して……いや、怒ってはる……かな……」
和美は言いながら、豆初乃の背中にそっと手を当てて歩き出すように促した。なにげない振る舞いに表れる、心の垣根を感じさせない動きだった。和美の屈託のないしぐさに、豆初乃はそれと知らず心をもたれさせかけていた。
「慶次郎マスター、おおきに」
豆初乃は、慶次郎が彼自身ではなく和美に置屋までの見送りを頼んでくれたことを、感謝していた。慶次郎の気遣いが身にしみた。
舞妓である自分が、どんな事情があろうとも路上を男の人と歩いていたら、よくない噂が立つことは間違いなかった。和美に面と向かって路上で説明しないことにも感謝した。和美にとっての配慮でもあるのだった。
「いいえ、お気をつけてお帰りください」
慶次郎はそう言って、「では」とお店へあわてて戻っていった。
「もう、うちのマスターは慌ただしいんだから。ほら、お客さんにお店の前で頭を下げてる」
和美が愛情を込めた笑いを浮かべながら、慶次郎マスターが店の前で待っている客に頭を下げているのを指さした。
「行こうか、屋形のお母さんには私が説明してあげる」
豆初乃はうなずいた。
和美が前を向いて半歩前へ出た瞬間に、豆初乃は帯の隙間に手の中のものを押し込んだ。手の中に握られていた指輪である。
(和美さんは気づいていない。たぶん……)
豆初乃はそう思いながら、巾着の紐を握り直した。屋形に帰って、手を開かずに玄関に上がったらすぐにばれる。お母さんはそういうことに―――いや、お店を預かる人間はたぶん誰しも―――とても目敏い。普段と違う振る舞いを決して見逃したりはしない。
―――見逃さないのは、見ているからだ。何も気づかないのは、見ていないから。お母ちゃんのように―――。
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