第9話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(5)

「豆初乃さん」

和美より速くたどり着いた慶次郎マスターは、車が消えた方向を見ながら豆初乃の横に立った。

 豆初乃はぼうっとして返事をしない。

「豆初乃さん」

慶次郎はもう一度、静かに声をかけた。

「……マスター」

豆初乃が左横に立つ慶次郎を見上げた。握りしめた手に巾着の紐がかかっている。混乱した顔で見上げて来た顔は、まだ17歳の幼さの残る顔だった。

「おけがはございませんか」

慶次郎はことの次第よりも、まず豆初乃の安全を確認した。

「どこも痛くは―――」

「豆初乃、豆初乃ちゃん!!豆初乃ちゃん!!あんた、あんだ、大丈夫?!」

和美が大声とともに豆初乃の肩に手を掛けた。ようやくたどり着いたのだ。

「はあ、はあ、豆初乃、ちゃん、はあ、けが、はあ、けがは、あんた」

息が上がったてしまってまともに話せなくても、和美はまくしたてる。和美のおでこや鼻に汗がひかり、メガネが曇る。

「あ、あ、だ、だ、大丈夫、大丈夫です」

和美の剣幕に飲まれて、豆初乃はつっかえながら返事をした。

「ほんとうに?ほんとうにだいじょうぶ?」

和美はいつもののんびりした雰囲気から想像できない勢いで、豆初乃の肩を掴んで勢いよく自分の方へ向かせた。

豆初乃は舞妓としては大柄で、164㎝ある。和美は160㎝足らずの身長のため、ふだんは和美が見下ろされる。しかし、このときばかりは、和美は大きく見えた。豆初乃をまるで小さい妹のように、心から心配していることが伝わった。

豆初乃は、和美のほんとうに心配してくれていることが伝わる表情をちょっと見つめてから、微笑んだ。

「うん、大丈夫……ほんまに、うち、ひとつもけがしてまへん」

それを聞いた和美の鬼のような形相がみるみる緩む。

「はあああああ……よかった……」

和美はへなへなとその場に崩れ落ちた。自然と豆初乃の両肩から手が離れる。

「ふふっ」

豆初乃は和美の思わぬ態度に吹き出した。和美がこんなにも自分を心配してくれていることがうれしかった。あんなに真剣に駆けつけてきてくれるのがうれしかった。ふだんは、人よりもはるかにのんびりして、小柄で丸顔で丸い眼鏡で幼いイメージの和美が、こんなにも真剣な恐ろしい形相をすることが、自分を心配してのことだとわかって、うれしかった。

「和美さん、おおきに」

 豆初乃は、へたりこんだ和美を助け起こそうと、手を差しだそうとした。そのとき、ようやく自分が凍り付いたように手を握りしめていたことに気づいた。右手が左手を包み込むように握りしめている。固く握りしめ過ぎて白くなっている。手が強ばったように動かない。

 和美は、右手をぐっと開いたところで、ハッと息を飲んでもう一度手を握り直した。

「どうかしましたか?」

 慶次郎が豆初乃の動きに気づいて、声をかけた。

「えっ……」

豆初乃は慶次郎の顔を思わず見上げた。思いやりのある、深い視線が上から豆初乃を見下ろしている。

「……いえ、なんにも、なんにもあらしまへん。あ、あきまへんな。驚いてしもて」

豆初乃は目をそらして、とってつけたような台詞を口にした。

「……手をどうかなさいましたか?」

慶次郎は穏やかに、再び訊いた。

「……え?」

豆初乃は手を握りしめたまま、ゆっくりと慶次郎の顔を見上げた。

浅黒い顔が無表情に慶次郎を見上げている。目の色が暗い。ふだんの豆初乃の、明るくてよく動く瞳とは違う。

慶次郎は頭のどこかで豆初乃のこういう目を見たことがあったことを、思い出していた。

何かを隠しているとき、嘘をついているとき、人は相手の目から目をそらさない。慶次郎は長年の商売の経験から知っていた。ふつうの人間は、相手の顔をまじまじと見たりはしない。視線は動くものなのだ。

 今、慶次郎の顔を無表情―――いや、むしろ少し脅えが眉頭に浮かんだ顔で―――にじっと見つめている豆初乃は、何かを隠しているのだ。

何かがあったのだ。

「……あの、うち」

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