第8話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(4)

 「えっ、ちょっと待ってくだ……」

 キュルルルルル!ザリザリザリ

 高そうなベンツの車体が、さらに壁をこする。女性はアクセルを全開に踏んだらしい。激しく車体をこする音をさせて車は発進した。

 ブオオオオオン!

 大きなエンジン音を響かせながら、狭い道をさっきと同じような猛スピードで北上し、突き当りを急ハンドルで左折して消えた。



 (数分前のこと)

「えっ何の音?」

激しいブレーキ音に和美が声を上げた。

それと同時に、慶次郎は店の扉の外に飛び出していた。

音のした方に目を走らせる。店の前をずっと歌舞練場の塀にそって右手、北へ一筋ほど行ったところに黒色の大きなセダンが道をふさぐ形で停止していた。いかにもおかしな位置で停まっている。明らかに車体の左を塀に擦った不自然な状態で道をふさいでいる。車のすぐ手前に豆初乃の浴衣姿が見える。

慶次郎は、気づかず詰めていた息を吐いた。誰かが撥ねられたり大けがをしている様子ではなかったからだ。

「豆初乃さん!」

 慶次郎は声をあげて駆けつけようと、踏み出したときに気づいた。

豆初乃は、誰かと話している。豆初乃の影になってよく見えない。

慶次郎は走り出した。すぐに後ろから和美が追いかけて来る足音がする。

「豆初乃さん!」

 慶次郎はなんとなく不吉な予感がして、とにかく大声を出した。豆初乃の意識をこちらにひきつけ、豆初乃の話している相手に目撃者がいることを分からせる必要があるように強く感じた。強い不安を感じた。

「豆初乃さん!」

「豆初乃ちゃん!」

慶次郎の大声につられてか、和美も大声で豆初乃の名前を呼んで走って来た。

 豆初乃が驚いて振り返る。声に出さず「あ」というような顔をした。

相手の姿は、まだ慶次郎の位置からは見えない。

 慶次郎があと数歩というところで、豆初乃の前にいる人間がようやく見えた。女性だ。驚くほど身なりの良い女性が、栗色の髪をひるがえして反時計回りで豆初乃の前から開いたままのドアへ滑り込んだ。まるで顔を見られることを避けるかのように背中を向けて。

 鮮やかなピーコックブルーのハイヒールが車の中に吸い込まれ、何本の指輪で飾り立てられた手入れされた美しい手がドアを閉めたと同時に、激しいエンジン音が響いた。

慶次郎からは女性の顔が見えなかった。見えそうになった瞬間に、女性は栗色の髪を揺らして向うへ向いたのだ。極く自然に。

 慶次郎が豆初乃にたどりついたときには、車は左の腹をこすりながらアクセル全開で壁から離れた。

黒いベンツは、細い道をアクセル全開で細い道を走り抜け、二筋ほど先の突き当りをぎりぎりのスピードで左折して姿を消した。



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