第7話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(3)

 「ごめんなさい―――けがはない?」

 駆け寄ってきた女性は、ハイヒールのせいで豆初乃よりも目線が高かった。豆初乃の目の前で首をかしげて、豆初乃と目線を合わせた。同時に、豆初乃の力を入れすぎて白くなった手を自分の手で包み込んだ。手を添えられた豆初乃は驚いて、自分の手元に目をやった。女性の人形のように美しいほっそりした手が目に入る。自分の少し浅黒い肌がより沈んで見えた。女性の指先の桜色のマニキュアの美しさに目を奪われた。女性が身じろぎする度に、かすかに甘い香りが豆初乃の鼻腔をくすぐった。

「―――なの?」

 女性の優しく甘い声が何かを言っていることに気づいて、豆初乃は顔を上げた。

女性の顔が目の前にあった。眉根を寄せて、心から心配そうに自分を気遣ってくれているように感じた。こんなにきれいでお金持ちそうな人が、自分を心から心配してくれる。甘い気持ちが豆初乃のなかに広がっていった。

「ごめんなさいね、ほんとうに……。けがはなかった?」

女性は薄い茶色の目に涙を浮かべて、豆初乃の顔を見つめている。瞳が涙に覆われてキラキラと輝いている。今にも泣き出しそうな顔に、豆初乃はいても立ってもいられなくなり、なんとかして上げなければならないという想いに打たれた。衝動的な気持ちだった。

「だい、大丈夫―――大丈夫です。全然大丈夫」

豆初乃は女性の泣き顔をなんとかしたくて、強く言い切った。無意識に笑顔を作った。

それでも心配そうな女性の顔をなんとかしたくて豆初乃は焦り、保護しなければならない気持ちになって何かしなければいけないという想いに強く駆られた。何かしてあげなければ―――。この泣きそうな人をなんとかしなければ―――。

「けががなくてよかった―――こめんなさい、ほんとうに。怖い人に追われていて―――」

女性は涙を浮かべた目を伏せて、告白した。

 豆初乃は、こんなにも優しそうな人があんなにスピードを出していた理由がわかった気がした。

かわいそうに。こんなにもガラス細工のような人が、こんなにもか弱そうな人があんなにスピードを出すほどに怖がっているのだ。なんとかしてあげたい、という思いに駆られた。

「ごめんなさい―――こんなこと、あなたが怖い思いをしたことに関係ないのに」

女性はごめんなさいを繰り返し、豆初乃の手から自分の手を離した。ひんやりとしているのにしっとりとした手がそっと放されることに、豆初乃はかすかに痛みを感じた。

「あ……の、大丈夫ですか?何かあたしにできることとか……」

豆初乃は助けてあげたいと思った。また親密な雰囲気に取り戻したくて、声をかけた。女性は豆初乃の声を聞いた瞬間にぱっと顔を上げて、心からうれしそうに笑った。

涙が一粒、つややかな薔薇色の頬にこぼれた。あでやかな大輪の花が目の前で開いたように感じて豆初乃はうっとりとした。

「本当?!」

女性は、こどもみたいな笑顔で笑った。

しかし、直後に

「ああ、でも、こんなことをあなたに頼むなんて……」

と目を伏せた。伏せた睫毛の先に涙が震えている。豆初乃はたまらなくなって、もう一度笑顔を見たくて、泣かせているのが自分のような気がして、慌てて言った。

「わたしにできることなら―――」

女性はふたたび目を上げて、豆初乃を微笑んで見つめた。瞳がきらきらと輝いていた。

「ありがとう……!ほんの少しの間でいいから、これを預かっていてほしいの」

女性は桜色の指を踊るようにひるがえして、右手の薬指から指輪を素早く抜き取った。豆初乃にはほとんど見たことのない大きな宝石がついた指輪だった。美しい緑の大きな石がついた指輪が、豆初乃の手に落とされた。

「えっ……」

驚いた豆初乃の顔に、女性は懇願した。

「これを持っているから怖い人に追われているの。だから、私の手元にないってわかったら彼らもあきらめるの」

女性はすばやく豆初乃の手を柔らかく包んだ。豆初乃の手の中の指輪ごと包むように。

「かならず取りに行くから」

涙を浮かべて懇願する女性に、豆初乃は自分しか彼女を助けてあげられないのだ、と確信した。しかし、きっとすごく高価な物なのに自分が持っているのは怖い。

「あの―――」

あなたの名前を教えてください、いつ取りに来てくれるんですか、と豆初乃が言おうとした瞬間、後ろから豆初乃を呼ぶ声が聞こえてきた。

「豆初乃さん!!」

「大丈夫?!事故?!」

慶次郎マスターと和美さんの声だ。豆初乃が慶次郎たちを振り返ると、女性は豆初乃の手から手を放した。

「お願いね……!」

女性は素早く身を翻して車に乗り込んでしまった。

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