第6話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(2)

 (ほんまに、もう。またこんな時間やわ。また本に夢中になってしもて。お母さんに怒られる)

 豆初乃は心の中でそう呟いて、小走りになった。といっても、稽古帰りの浴衣姿だからそんなに大股で走れるわけではない。舞妓姿の10㎝もあるおこぼよりはずっと早く歩けるが。

 豆初乃が暮らしている雪駒家という屋形まではほんの5分ほどの距離である。左手には、ずっと歌舞練場の塀が続く。右手からの細い道が合流する三差路をいくつか越えると、屋形である。

 裾と時間を気にしながら、人影の少ない昼間の花街を急ぐ。車もほとんど通らない道だけに、豆初乃は時間に気を取られてすこし上の空だった。

 キキキ―――ッ!!

 店を出て20メートルも行かない角に豆初乃が足を踏み入れようとしたとき、耳をつんざくような車のブレーキ音が響いた。反射的にそちらを見た豆初乃の目に、右手の細い道から迫ってくる黒い車が間近がもう間近だった。

―――ぶつかる

 そう思った瞬間に、豆初乃の体は風圧で後ろによろめいた。

 ギャギャギャギャギギギギ、とタイヤが路面をこすって、車は歌舞練場の東の塀にこすって停まった。

「―――」

 一瞬の出来事に豆初乃は動けなかった。豆初乃があと10㎝前に足を踏み出していたら、間違いなく撥ねられていた。かすりもしなかったとはいえ、驚きで豆初乃の足は凍り付いたように動けなかった。

 バン!

 車の扉が開いた。豆初乃は思わず巾着を胸に強く抱きしめた。車は黒塗りの大型ベンツ、窓にはスモークガラスが入っているのである。

豆初乃の目に、鮮やかな青が飛び込んで来た。

 距離にして3メートル歩数にして5~6歩のところに、壁にこすって停まっている車のドアが開いたまま、場違いなまでに青いハイヒールが現れた。

 巾着を胸にぎゅうっと強く抱きしめたまま、呆然と立っている豆初乃の目の前で、ドアからゆっくりとハイヒールの持ち主が姿を現した。

 最初にクリーム色のタイトスカートが現れた。次に扉にほっそりとした手がかかる。輝く指輪が何本もの指にはめられている。腕の中ほどまでの袖のクリーム色のジャケットが続けて現れて、全身が現れた。全身を現した女性は、驚くほど美しかった。

 狭い道路でとんでもないスピードを出した人間とは思えなかった。

 車から姿を現した女性は全体にほっそりとした優雅な姿で、見るからに上等な服を身につけていた。そこに、屋形のお母さんが趣味で集めているものすごく美しい人形にそっくりな小さな顔と、それを縁取る柔らかな栗色の髪が乗っていた。あまりの場違いな姿に、豆初乃は撥ねられそうになったことも忘れて、女性に見とれた。

 女性は豆初乃の姿を一瞬いぶかしむような顔でじっと見つめた。豆初乃は自分が撥ねられそうになったのだから文句を言ってもいいはずなのに、人形が現れたかのような女性の姿に巾着を抱きしめるばかりだった。

 女性は豆初乃を見て、一瞬の後に、豆初乃に心から心配をしている顔で駆け寄ってきた。わずか数歩、美しいブルーの大ぶりなネックレスが揺れるのに豆初乃は気を取られた。豆初乃はスローモーションのように、彼女が駆け寄ってくるのを、後になっても何度も思い出した。

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