第5話 第1章「謎の始まり」 五月七日・昼(1)
「豆初乃さん、そろそろお座敷の支度せなあかんのとちゃいますか?」
しゅんしゅんというお湯の沸く音だけがしていた空間に、低い声が割り込んだ。
「ん……」
豆初乃は、若い舞妓の髪形のわれしのぶの頭を揺らして、生返事をした。
きもちよく本を読んでいたのに、という気持ちが豆初乃のうちに湧く。
しかし、次の瞬間には、はっとして壁の時計を見上げた。時計は午後三時五十分を指そうとしている。
「……四時!四時には帰ってへんとお母さんに怒られる!」
豆初乃は思わず声を上げて立ち上がった。手をついたテーブルの上で紅茶のカップとポットがかたかたと振動で揺れた。カップの半分ほど残っている金茶色の液体も揺れる。
「いやあ、本に夢中になってしもたわ」
慌てふためきながら豆初乃は文庫本を閉じて、席を立とうとする。着物のたもとをテーブルに引っかけそうになる。紅茶店店主の慶次郎とアルバイトの和美が危なっかしさに今にも手が出そうになって見守った。
「豆初乃さん、お代はつけておきますからお早くお戻りなさい」
慶次郎が、巾着袋をぶちまける勢いで財布を探している豆初乃に言った。
「それはダメ……あきまへん。付けにしておいてもらうなんて絶対あきまへん。うちは、お代はかならず支払ってからしか店を出ませんのや」
舞妓らしからぬ慌てふためいた様子から一転、居住まいを正して顔を上げて豆初乃は言った。ふと花街の言葉ではなく地の言葉が出てしまうところが、まだまだ修行が足りなかったけれど。
「―――そうでございますね、お金のことはしっかりしなあきませんね。642円でございます」
慶次郎は微笑んだ。アルバイトの和美が、紅茶ポットの形のトレイを豆初乃の前に差し出す。
「はい、642円。あ、レシートください」
小さながま口財布から小銭を出して、豆初乃はトレイの上に置きながら、きっちり数え直した。渡されたレシートの数字を眺めてうなずいている。
慶次郎と和美は、豆初乃のそんな様子を内心では焦りながら見ていた。時計の針はどんどん進んでいるのである。
「豆初乃さん、お時間が迫ってございます」
慶次郎は執事のように恭しく豆初乃を促した。
豆初乃は驚いた顔で時計を見上げ、「ほな、おおきに!」と元気よく言って、小走りで店を出て行った。
時計は午後四時をちょうど打ったところである。
「豆初乃さんは本当に本が好きなんですね」
アルバイトの和美が、豆初乃のテーブルに置かれた文庫本を手に取ってつぶやいた。カバーもなくなってしまったむき出しのそっけないデザインの文庫本には、『古都』と書かれていた。
「そうですねえ。あの方は、本が読みたくてうちに来られるようなものですからねえ」
慶次郎は豆初乃のテーブルを片付けながら答えた。
「舞妓さんが紅茶店で真剣に本を読んでる姿ってちょっと珍しいですよね」
和美は楽しそうに言いながら、本棚に本を戻した。天井まで届く頑丈そうな作りの木の本棚に、さまざまな本が詰まっている。店主の慶次郎の本好きに始まり、お客さんの要望で本を増やしていったのだ。また、そのうち本を置いていってくれる客も出てきて、本棚を増設した。
「さあねえ。本好きの方に舞妓さんかどうかは関係ありませんから……。ここに来ておられる間は、お客様は自由にありたい自分ですごしていただくことがコンセプトでございますからねえ」
慶次郎はゆったりとした口調で答えた。
「まあ、そりゃそうですけど、ちょっと可愛いじゃないですか?舞妓さんが本を読みにくる紅茶店!それだけで売りになりそうですよ」
和美はそう言った。
壁の上の方には芸妓たちの名前が朱で描かれた団扇が飾ってある。豆初乃、豆花、紅乃、福市……みんな、常連客だ。
花街の中に店があることもあって、舞妓や芸妓の客は多い。観光地のど真ん中にあるわけでもなく一筋二筋ほど引っ込んだ静かな界隈にある。静かな場所なのだ。そのせいもあって観光客は少なく、地元のお客さんや芸事のお師匠さんも常連客だ。
しかし、慶次郎はそういうことを売りにしたくはなかった。観光客にアピールするために芸妓さん達の団扇を飾り始めたのではなかった。この店を元芸妓がやっていた小料理屋から居抜きで受け継いだときからの習慣でそうしているだけだった。できるだけ、地元の人がくつろげる場所にしたい。慶次郎は決して大々的にはせずに細々と続けてきたのだ。
「お店で出す紅茶がお店の主力商品ではありませんから。うちは卸が専門ですからね。地元の皆さんに、ゆっくりくつろいでもらうことが目的でお茶をお出ししているのです。ここに育ててもらった恩返しですから。客引きパンダみたいなことはしないのですよ」
慶次郎は店に空気を入れるために、表に面したガラスの窓を開け放った。窓の下の小さなテラスのにテーブルが置いてある。その周りを囲むツル薔薇が、薄桃色の花をいくつかつけていた。
開け放たれた窓から初夏の風が入ってくる。広くはない店内に薔薇の香りが漂う。落ち着いた濃い緑に塗られた窓枠にかかる白いカーテンが風にひるがえると、歌舞練場の塀の上の緑が見えた。
「いい風ですねえ、まるで―――」
初夏の風と光をヒゲ面に浴びて、慶次郎がうっとりと詩を口ずさもうとしたとき―――
キキキーッ
つんざくような車のブレーキ音が飛び込んできた。
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