第15話 彼女たちの戦い-5

 火連の放った炎は、水スクリーンの中央よりも右端にぶつかって霧散した。

「げ、端っこ」

 火連は振りかぶった勢いでバランスを崩した体を立て直す。首をひねりながら頭を掻いた。

「もっとうまくいくと思ったんだけどな」

「でも熊谷君、威力の調整はだいぶうまくなってきてるよ。軌道調整はまだ課題だけど、この調子でいこう」

「はい」

 結月の評価に一息ついて、火連が蘭花たちのもとに戻ってくる。

「熊谷、なんだかんだでかなりまともになってきたんじゃない?」

「威力が落ち着いてきたよな。強弱を自由に調整できればすごくよくなりそうだ」

 美弦と夏樹の評価にまんざらでもない表情をしながら、それでも火連は首をひねる。

「生方先生に見てもらってるときは、もうちょいうまくいくんだけどな」

「まだ不安定なのかもな。それか、生方先生の教え方がよっぽど熊谷に合ってるか」

「うーん、でも生方先生と結月先生の教え方に大きく差があるかっていうと、そうでもないんだよな。それでも授業以外に時間とって教えてもらってるんだから、生方先生の方が正直ありがたみがあるんだけどさ」

 そういうと、火連はちらりと結月を見た。結月をけなしているわけではないけれど、なんとなく後ろめたいものがあるのかもしれない。

 火連が生方から魔法の指導を受けるようになって二週間ほど。

 さすがに本来の指導者である結月に黙って生方に習うのはどうかと思った火連は、事情を結月に打ち明けた。多少の苦言は受けたようだが、止められることも大事にされることもなかったので、都合がつく限り火連は生方から魔法の指導を受けている。

 以来、少しずつだが技術を向上させている火連の様子を見て、蘭花も己の事のように喜んだ。

「でも良くなってきてるんだし、そのうちどんな状況でもうまく魔法扱えるようになるよ」

「ああ、まあ、ちょっとは自信出てきた」

 蘭花の言葉に火連が笑んだから、蘭花も笑顔で言い募る。

「やっぱり火連くんはすごいんだ。さすがだよね」

「あー、いや、うん。もういいから、そんな言うな」

「なに熊谷。照れてんの」

 美弦の問いに、火連は笑顔を消して言った。

「蘭花にとやかく言われると、調子にのせられる」

「なーにがのせられるだか。調子にのるのは熊谷の勝手でしょ」

「ほっといてくれ」

「まあまあ、熊谷はとりあえず素直に喜んでおけばいいんじゃないの。うまくなるのも自信を持つのも悪いことじゃないんだから」

 複雑そうな表情の火連の背を叩きながら夏樹が言う。

「おだててるとかじゃないんだよ。私、本当に火連くんの事、すごいと思ってるの」

 自分の言葉が火連を乱したようで、蘭花は戸惑う。素直な気持ちを言葉にしただけで、人を不快にさせるつもりなどかけらもないのに。

「そうだ、今日って生方先生出張だったよな。熊谷もいることだし、今日みんなでどっか寄って帰んない?」

 話題を切り替えるように、夏樹が明るく言った。

「えー、行きたーい!火連くんと美弦ちゃんは行ける?」

「私は平気だよ。どこ寄ろっか、いつものフードコート?ファミレス?」

「あー、まあ、俺も大丈夫。場所は任す」

「私、甘いものが食べられればどこでもいい!」

 盛り返した雰囲気に、先刻の気まずい空気を忘れて蘭花ははしゃぐ。

 深刻なのは、自分たちには似合わない。そう思いながら。


「みんなで帰るのも久しぶりだねえ」

 放課後、四人そろって校舎を後にする。

 最近は火連が生方のもとに寄っていくことが多いので、いつもの四人で下校するのはずいぶんと久々のことだった。

「熊谷だけが久々なんじゃない?三人では時々一緒に帰ってたじゃん」

「でも女子は二人だけで帰ることも多かっただろ。熊谷もいないし、俺、ちょくちょく一人で帰ってたもん」

「さみしがるなよ、高校生にもなって」

 容赦ない美弦の言葉に、夏樹は不服そうに言った。

「さみしいってか、つまんないからさ。みんなそうでもない?」

「一人で帰るの、嫌だよね」

 そう言って、蘭花は自分でも思いがけず遠い過去の記憶に引きずられそうになるのを感じた。

 だから今、隣に並び立つ一同の顔をしっかりと見る。

「一緒に帰る友達がいるのはいいことだよ」

 蘭花ももう高校生で、中学生のころから一人で習い事にも通っていたし、留守番だってもうシッターを必要としない。

 それでも一人でも帰れることと、誰かと一緒にいると楽しいこととは別だ。

「そりゃ、一人で帰るよりは楽しいかな」

「ま、せっかくならな」

 美弦も火連も表情を和らげる。夏樹も得心がいったような笑顔で頷いた。

「西園さん、草壁さん」

 花壇の脇にある水飲み場のそばに差し掛かったところで、急に声をかけられた。

 振り返ると、木乃香が軽く手を振っていた。大きめのショップバックを肩から掛けてこちらにやって来る。

「渚先輩、こんにちわ」

「こんにちは。久しぶりになっちゃったね」

 言いながら、木乃香はショップバックから二つ包みを取り出した。

「遅くなってごめんなさい。これ、この前借りたジャージと、ハンドタオル」

 美弦は大きな包みを、蘭花は小さな包みをそれぞれ手渡された。

 返却されたジャージとタオルはレジ袋のような適当な袋ではなく、カラフルな柄のギフトバックにくるまれていて、まるでプレゼントのようだった。それどころか、小さなセロハン袋に入れられたお菓子が添えられている。

「こんな綺麗にやらなくたってよかったのに……」

 美弦が困惑気味に言った。蘭花も受け取ったものを思わず返しそうになる。

「先輩、これじゃかえって申し訳ないですよ」

「いいから。だいぶ遅くなってしまったし、助かったから」

 小袋に入ったアイシングクッキーには、『Thank You』とメッセージがデコレーションされていた。

 雑貨屋で見たことのあるかわいらしいお菓子は、わざわざこのために買いに行ったものなのだろうか。それともショッピングのついでか。

 どちらにせよ、テレビにも出演しているような木乃香が、自分たちも行くようなお店で買い物をしている光景を想像するとなんだか不思議な気分になった。

「ありがとうございます、いただきます」

「ずいぶんとお忙しそうですね」

 美弦がいつもより硬い声で問うた。その問いは、穿った聞き方をすればジャージの返却が遅くなったことへの嫌味ともとられかねなかったが、美弦の声にはそんないやらしい響きは一切ない。

 ただ少し緊張しているように蘭花には感じられて、木乃香を苦手としているのだという美弦の精いっぱいのコミュニケーションにも思えた。

「そうなの。返すのが遅くなって本当にごめんなさい。授業の合間は一年生の教室まで行く時間はないし、放課後はすぐに学校を出なくちゃならなくて」

「お仕事、忙しいんですか」

 蘭花が訪ねると、木乃香はいつものように自信のあふれる笑顔を浮かべた。

「もうすぐコンサートがあるの」

「わあ、素敵!」

「コンサートの打ち合わせとか、たくさんあってね。なかなか忙しくて」

「大変なんですね」

「大変だけど、楽しみだからね。今度のコンサートはここでやるし」

「ここって、学校ですか?」

 蘭花だけなく、三人とも興味深げに木乃香を見た。

「そう、入学式をやったホール。あそこってコンサートホールとしても演劇舞台としても有名で、外部にも貸し出していろいろな舞台公演に使われてるの知ってた?」

「あー、なんとなく、色々やってるなって思ってましたけど」

 入学前にもらった学校案内にも記載されていた。

 学生が式典時などに使う大きなホールは、真木野芸術ホールという名で、学内の一施設を越えて県内有数の劇場として利用されているのだ。

「あそこでコンサートやるの。凱旋公演には早すぎる気もするけれどね」

「でもなんだか嬉しいですね。自分のホームで歌えるなんて」

「そうね、嬉しい」

 力強い眼差しを湛える目を伏せて、木乃香は言った。

「真木野には憧れていたし、入学できて本当に嬉しかった。入学してみれば、芸の世界で戦っていくのは本当に大変で、苦しいこともあるけれど。だけど私、そういうことのすべてに打ち勝って真木野の舞台に立つの。学校行事の中でなく、私のためのステージで」

「先輩?」

 木乃香の情熱があまりにも頑なで、そしてどこか孤独を思わせたから。思わず蘭花は木乃香に呼び掛けていた。

「精いっぱい頑張らせてもらうわ。みんなも良ければ見に来て」

 他の掛ける言葉を探している間に、木乃香にまとめられてしまう。そのままぼうっとしていたら、木乃香が何か思いついたように口を開いた。

「そういえば草壁さん。私、この前気になったことがあったのだけれど」

「え、なんですか?」

「この前、着替えを借りに言った時、手に怪我していたでしょう。あれどうしたの?」

「ああ、使い魔の授業中、動物に引っかかれたんです」

 たいしたことありませんでしたよ、と言って、すっかり傷の癒えた腕を掲げた。

「そう。よかった」

「はい、ご心配おかけしました」

「怪我をしたのは授業中ね?」

「……はい」

 妙に真剣に聞かれて、蘭花の声も硬くなる。

「それならいいのだけど。ほかに最近、変なことが起きたりはないよね?」

「あの、先輩。なにかあったんですか?」

 木乃香の不穏な言葉に、蘭花はタオルの入った袋を握りしめた。黙って聞いていた火連たちも顔をしかめる。

 四人からの視線に、木乃香が口を開きかけた瞬間。

 突如、横面を張られたような衝撃を受けた。痛みにも似た、けれどそれとも別の感触があって。

「冷たい!」

 衝撃から顔を上げる。

 ぼたぼたと自分の体から雫が滴って、水をかぶったのだとわかった。手のひらで顔をぬぐって辺りを見れば、木乃香も自分と同じくずぶ濡れになっていた。

「ちょっと、何?」

 美弦が悲鳴じみた声を上げる。美弦たちは水をかぶらずに済んだようだが、突然の出来事に目を剝いている。

「大丈夫か?」

 火連に問われて、蘭花はうなずくことはできなかった。大丈夫だなんて、とてもじゃないけれど言えない。

「水道が壊れた……わけじゃなさそうだな」

 言いながら、夏樹が水飲み場の蛇口に触れる。

 確かに衝撃は水飲み場の方向から来た。

 全開で蛇口を開栓すれば、上を向いている飲み口からは勢いよく水が跳ね上がる。けれどそれでも傍に立つ人をびしょ濡れにするほど水は飛び出さないだろう。

 飲み口を指で押さえて跳ね飛ばしたとしても、あんなバケツをひっくり返したような、爆発的な水量が襲ってくるとは考えにくかった。

「今の、水の魔法ですよね」

 蛇口を強く握りしめて夏樹が言う。

「多分ね。水道を伝わってはきたみたいだけど、水の魔法だと思う」

 木乃香が水に濡れた髪をかき上げる。今までほとんど笑顔を崩さなかった彼女が、忌々しそうに蛇口を見やった。

「馬鹿みたい。こんなことして何が楽しいんだか」

 木乃香が吐き捨てる。

「これって嫌がらせですか」

 ひどく冷たい言葉が響いた。

「そんな、美弦ちゃん」

 美弦の放った言葉は、誰かの悪意を意味していた。信じたくなくて、声が震えた。

「でしょうね」

 木乃香はあっさりと言った。憤る一方で、呆れてもいるようだった。

「ねたんでるんだか、足を引っ張りたいんだか知らないけれど。私が目立つのが気に入らないみたいね」

 ある意味で傲慢ともとれる理由を木乃香は口にする。それだけの実力と実績が彼女にはあった。

 木乃香が輝けば輝くほど嫉妬し、その足元をすくおうとする者がいるのだ。

「とりあえず蘭花、拭けよ。風邪ひくぞ」

 火連に言われて、蘭花は先ほど返してもらったタオルを取り出す。

 水を通さない素材の包みにしっかりとくるまれたタオルとクッキーは無事だった。

 濡れたセロハン袋越しに見えるクッキーのメッセージは水滴のせいで歪んで見えて、なんだか悲しかった。

「タオル足りるか?」

「うん、多分大丈夫。ありがとう火連くん」

 まだ混乱していたけれど、優しくしてくれる人がそばにいることに何とか気持ちを持ち直す。

 顔を濡らす水をしっかり拭いきったことで、ようやく本当に視界が晴れた気になった。顔を上げると、木乃香が申し訳なさそうに言った。

「平気?」

「なんとか。先輩こそ、大丈夫ですか」

「一応ね。腹は立つけれど」

 木乃香は短く息をついた。

「今、水を飛ばしてきたお馬鹿さんは、どうせすぐに見つかるでしょう」

「え?」

 心当たりでもあるのだろうかと思って、蘭花は聞き返す。

「だって、ここをどこだと思っているの?」

 木乃香は背後の校舎を示すかのように、両腕を広げた。

「ここは真木野学園、魔法の一流機関なの。そこで必要以上に、しかも人を攻撃するために魔法を使えば、どうなるかわかるでしょう」

「あっ」

 合点がいって蘭花は声を上げる。みんなも意を得た表情だった。

「さっきの嫌がらせの魔法も、きっと先生たちはとっくに感知してる。先生たちがそれを放置するはずがないもの」

 だからお馬鹿さんなのよ、と木乃香は言い捨てた。

「本当に馬鹿な人。魔法を使わなければ、ばれなかったかもしれないのに」

 一瞬、木乃香の表情が揺らいだ。

「この前やられた時は、そのままバケツの水をぶっかけられたからね。古典的だけど、実際先生にはばれなかったみたいだし」

 蘭花は先日、木乃香がびしょ濡れになって現れた理由を理解した。あの時も木乃香は嫌がらせを受けていたのだ。

「くだらない噂や中傷でも流せば、魔法なんて使わなくても嫌がらせできるし、ただ引っぱたいて突き飛ばすだけなら、うまいことやれば先生にはばれないのにね」

 瞼を伏せた木乃香の頬を、拭いきれなかった雫が流れ落ちた。

 今、口にした水面下の悪意すべてを、恐らく木乃香はその身に受けたことがあるのだろう。木乃香は悲しいくらい冷静だった。

 きっと、初めてではないから。

「先輩、つらくないですか」

 蘭花のほうが泣きそうだった。問いかける声は情けなく湿った。

「つらくないとは、言わない」

 伏せたままの瞼が開かれた。

「だけどその分、私はそういう人たちのことを踏みつけにして行くから」

 そしていつものように勝気に笑って。

「でもそんな低い場所から足を引っ張る人なんて、踏んでしまう前に飛び越えてしまうけどね」

 そうして高みから笑う彼女は美しかった。

まるでランファのようだった。他者を蹴落とすと口にしながら、決して浅ましさがなく、気高いばかり。

「渚先輩」

 すがるような声がした。

 振り返ると、美弦が真っすぐ木乃香を見ていた。

「私、あなたがとても苦手でした」

 美弦の言葉に、当人たち以外が一瞬ぎょっとする。

 美弦が木乃香を苦手としていることは知っていたが、まさか本人に直接それを言うなんて思っていなかった。

「それ、本人に面と向かって言う?」

「あなたなら、私の言うことなんて飲み込んでしまうと思ったから」

「いちいち気にはしないけど、良い気分ではないわよ。ただ」

 木乃香は動じないまま言った。

「西園さんに嫌われる心当たりはあるからね」

 思いがけない言葉に、蘭花は美弦と木乃香、二人の顔色をうかがう。

「渚先輩に『空っぽだ』と言われた時、とても悔しかったし、ムカつきました。あんたに私の何がわかるんだって、誰でもあんたみたいに強いわけでも、頂点に近いところにいるわけでもないんだって思って」

 怒りのような、失望のようなものをにじませて美弦は言い募った。けれど荒ぶるでも、興奮するでもなく、ただ静かに木乃香に言葉をぶつける。

「というか、今でもちょっと思ってます。でも、少し先輩のこともわかったから」

 美弦は木乃香から目をそらさなかった。

「あなたも戦っているんだってことは、わかったから。それだけは、よくわかったから」

「私がどこで戦っていても、西園さんには関係ないでしょう?私が言ったことが取り消されるわけでもないのだから」

「関係ないです。言われたことも忘れません。でも、渚先輩の強いところを、素直に尊敬したから」

 受け止め方は変わります。

 そう言って美弦はそっと息を吐いた。

 言うだけ言って、やっと力を抜いたような呼吸だった。

「そう」

 木乃香は短く返した。

「はい。それにもう、これからは、空っぽなんて言わせないつもりですから」

 挑むような美弦の視線を受けて、木乃香は笑った。

いつもの勝気な笑顔よりも優しい雰囲気で。

「頑張ってね」

 辺り一面の水浸しで、雨上がりのような爽快さもない放課後の学園で。

 蘭花は少女たちの戦いを知ったのだった。

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