第14話 彼女たちの戦い-4
軽く曲げた腕は胸の前に掲げて、目線は離れた足場に止まっているフクロウをしっかりと見据えて。
真剣な眼差しで実技に取り組む火連に見とれる余裕もないくらいに、蘭花は先刻のことを反省していた。それと同時に、もっと真剣に授業取り組まねばと、クラスメイト達の実技をしっかりと観察する。
「ミモザ」
火連は琥珀色の美しい瞳をしたフクロウの名を呼んだ。
この授業では、名を呼んだだけでは彼らは指示を聞かないようになっていたが、魔法のきっかけとしてつい名前を呼んでしまう生徒が続出した。
ミモザは羽音もなく滑空すると、そのまま火連の腕に降り立った。
「重っ」
飛ぶために軽くできているはずの体はそれでも大きくて、腕一本で支えるにはやはり重いようだ。太い脚と鋭い鍵爪でがっちりと火連の腕に止まっていて、爛々とした琥珀の瞳と堂々とした体躯は狩りをする獣の迫力だった。
「どうでしたか、やってみて」
火連からミモザを受け取りながら生方が問う。
「思ったよりはスムーズにできたと思うんですけど」
「名前、つい呼んでしまうでしょう」
「あ、そうですね。名前呼んでも来ないっていうから、呼ぶ必要ないかなって思ったんですけど、つい名前言っちゃいますね」
「そういうものなの?」
蘭花が横から口を挟んで聞いた。
「ああ。こう、自分の意識とフクロウの意識を繋ごうとするだろ?で、『あ、繋がったな』って思った瞬間に『こっちに来い』って頭の中で指示をしようとするんだけど、まず名前が口をついて出たって感じ」
「意識を繋ぐというのは、相手の存在を認識するということですからね。だから名前がまず意識に浮かんでくるものなの。動物とのコミュニケーションで名前を呼ぶのは自然なことだから問題にすることではないけど、それこそ隠密に使い魔を使役したいときなんかは、思わず名前を呼んでしまわないようにしないとね」
「はい」
ふっと息を吐いて、火連は同じように実習を終えた生徒たちの中に戻った。蘭花は自分より先にフクロウを操るクラスメイト達を観察しながら順番を待つ。
「草壁さん」
生方に呼ばれて、蘭花は所定の位置についた。
「では、まずは腕を胸の前か腰のあたりに、軽く曲げて構えてください」
「はい」
右手に皮手袋をはめて構える。少し離れたところに止まっているフクロウは黒目に茶の毛のオペラだ。
「普段魔法を使うとき、自分の体外にエネルギーを放出するイメージでしょう?人によって魔力のふるい方はそれぞれだけれど、その放出した魔力の形を変えるなり、道筋を示すなりして魔法を使いますね」
「私は感覚で使う方なので、あんまり考えたことはないのだけれど……でも多分、言葉にするとそういうのに近いと思います」
「魔力を放つ時、使役する動物に向かって魔法を放つイメージを思い描きます。あなたの意識を魔力とともに動物に運んで、あなたと動物を繋ぐ道筋を作る感覚です」
「難しい……」
そういうと、生方は少し笑った。
「あなたは感覚重視だから、今説明したことにとらわれすぎることはないでしょう。魔力を行使しながら、あの子に心の中でも、口にしてでも、呼びかけてみるといいですよ」
「わかりました」
蘭花は息を吸った。
呼吸を肺に満たしながら、己の内側に魔力を満たしていく。この魔力をオペラに届ける感覚で、黒くて丸いフクロウの瞳を見つめる。
遠く離れたオペラの意識はどこにあるのだろうと、息を吐きながら探る。オペラの意識と繋がろうとする自分の魔力が、ふと、獣の気配に触れた、ような気がして。
繋がった。
「オペラ」
フクロウの名を呼ぶ。
同時に、オペラの爪が枝を離れる。
大きな体を空気の流れに乗せて、蘭花のもとにオペラが飛んできた。思わず胸高にあった腕を少し伸ばした、その瞬間。
「ひゃ!」
突然の事態に、蘭花は叫んだ。
蘭花めがけて飛んできたオペラは、腕に止まらずその太い爪を蘭花に向けた。獲物を捕らえるときのように爪を繰り出してくるので、必死で顔と頭を腕で覆う。
「痛っ、痛い!やめて!」
興奮したオペラと襲われる蘭花、周りにいた生徒たちに動揺が走る。
その生徒たちの輪から抜け出して、火連が叫んだ。
「蘭花!」
声がした方を蘭花は振り返った。火連が腕を伸ばしていた。思わずその腕にすがろうとしたが、火連の伸ばした手元に、一瞬火花が見える。
「駄目よ」
火連の腕が、別の細腕に捕らえられた。
細腕はそのまま火連を引っ張って後ろに下がらせる。火連を下がらせた生方は、オペラの前に素手のまま腕を差し出した。
「オペラ、おしまい」
生方の一言に、オペラは急速に大人しくなって爪を下ろした。カッカッと興奮を鎮めるように鳴いて、生方の腕に止まる。長袖を着てはいるが、皮手袋のない腕でオペラを受け止めた生方は一瞬渋い顔をして、すぐに足場に止まらせた。
「大丈夫、草壁さん」
「大丈夫、です」
言いながら、蘭花はへたり込む。
「蘭花」
顔を上げると、火連が腕を伸ばしていた。延べられた腕をつかんで、蘭花は立ち上がる。
「こわかったあ……」
火連の腕を取ったら安心して、思わず情けない声が出る。
「ありがとう、火連くん。助けてくれて」
「助けたのは先生だし……」
蘭花はふるふると首を振った。
「助けてくれようとしたもん」
「いや、俺がやらなくて良かったわ。先生が出てきてくれて助かった」
火連の言葉に、蘭花は首を傾ける。
「そうね。助けに出たのは感心するけれど、熊谷くんの魔法は強力ですからね。あのままだと、オペラどころか草壁さんまで丸焼きになってしまうところだった」
蘭花はあの時、火連の手元に火花が散ったことを思い出した。
火連は蘭花を引き寄せようとしたのではなくて、炎の魔法を繰り出そうとしていたのだ。
「すみません」
「まあ、私も指導者として、この事態が起きたことは反省しなくてはね」
生方は目を伏せて息をついた。
「私、何が失敗したんだろ……。そんなに浮ついてたかなあ」
最初、はしゃいでしまったことを思い出す。
不真面目だったことをフクロウにまで見抜かれたのだろうか。
「そういや蘭花、昨日、講師の先生んとこで使い魔と遊んだって言ってなかったっけ」
「あ、うん、キューちゃんのこと?昨日、典子先生のとこに行ってキューちゃんと遊んできたけど」
「典子先生って、使い魔のパフォーマーの方ですか?それなら、オペラがああなった理由もそのせいかもしれない」
生方が考え込むように首をひねる。
「使い魔というのは、自分の主人が使役する動物以外の気配には特に敏感なんです。草壁さんが遊んだというその使い魔の気配がまだ残っていて、それで興奮したのかもしれません」
「そういうものなんだ……」
落ち着きを取り戻したオペラは、ミモザとタタンとお喋りでもするかのようにしきりに首を傾けていた。決して凶暴な獣などではないのだと、蘭花は己に言い聞かせる。
「草壁さんは、怪我をしたようなら保健室に行きなさい。まだやっていない生徒はこちらに並んで」
蘭花の左手の甲にはひっかき傷がいくつかできていた。けれどそのまま黙って、蘭花は最後まで授業に参加していた。
「蘭花、大丈夫?」
気遣わし気に顔を覗き込む美弦に、蘭花は笑って返した。
「大丈夫、ちょっと引っかかれただけだし。フクロウ大きいからパニックになっちゃったけど」
授業が終わり、更衣室で着替えている最中。
改めて確認すると、皮手袋もなく肌の露出していた左手の甲にいくつかひっかき傷が走っていた。けれどジャージを脱いで腕を確認したところ、袖に守られていたようで他には傷らしきものは確認できなかった。
「でも、手の甲ミミズ腫れみたいになってるじゃない」
「多分すぐに引くよ。ありがと、美弦ちゃん」
手の甲に気を付けて、蘭花はブラウスに袖を通す。リボンまで綺麗に整えて、ジャージをたたんでいたその時、唐突に更衣室の扉が開いた。
クラスの全女生徒がその場にいると思っていた一同は、何事かと入り口に注目する。
「渚先輩⁈」
馴染みのある顔に、蘭花は大声を上げる。思わず大きな声になったのは、突然の登場だったからというだけではない。
「どうしたんですか、その格好」
現れた木乃香はびしょ濡れだったのだ。頭のてっぺんから、髪も顔も制服も水をかぶっていた。
「誰か着替えを貸してくれない?」
更衣室内の誰よりも落ち着き払った声で木乃香は呼びかけた。突然の出来事に固まる一同を前に、木乃香は自ら蘭花と美弦のもとへとやって来る。
「西園さん、ジャージ貸してくれない?上だけでいいの」
「でも今、授業で着たばかりなので……」
「それでもかまわないから、お願いできる?」
「あの、渚先輩。私のジャージでよかったら」
美弦が木乃香を苦手としていることを知っている蘭花は、横から自分のジャージを手渡す。
「草壁さんはサイズが合わないと思うの。西園さんなら多分変わらないから。いや?」
「……いいえ。どうぞ」
美弦はそっと自分のジャージを差し出した。それを受取ろうとして、木乃香が手を引っ込めたので、蘭花は慌てて自分のハンドタオルを渡す。
「ありがとう、二人とも」
木乃香は制服を脱いで丁寧に水滴をぬぐった。
女子同士なので下着一枚になってどうということはないが、憧れの歌手が素肌をさらして着替えているのは変な気がしてしまう。キャミソールまで濡れてしまったようで、木乃香は素肌にそのままジャージを羽織る。首元まできっちりとジッパーを閉じて、彼女の着替えは完了した。
「それじゃあ、借りていくね。ジャージもタオルも洗濯して返すから」
「別にそのままでもいいです」
美弦の言葉には特に返事をせず、蘭花と美弦に頭を下げて木乃香は更衣室を去っていく。
「何があったんだろうね、渚先輩」
「さあね……」
残された蘭花と美弦は、同じく疑問でいっぱいのクラスメイト達から質問攻めにあう。
けれど二人も答えようがなくて、更衣室にはわけのわからない空気だけが残っていた。
放課後、一緒に帰ることの多いいつもの三人とは別れて教室を飛び出した蘭花は、ガラス張りの鳥獣舎へと向かった。
鍵がかかっていないようなのでそのまま入室すると、作業着を着た人と話している生方を見つけた。
「あら、草壁さん」
蘭花に気づいた生方は、作業着の人に「お疲れ様」と言って話を切り上げた。蘭花は鳥獣舎から出ていくその人を何となく視線で追う。
「あの人は飼育員の一人。ここの動物は私の使い魔だけれど、一人で世話はしきれないですからね」
「ああ、なるほど」
今、この建物の中に動物の姿は見えない。ここに動物を放つこともできるけれど、放し飼いにしているわけでもないらしい。もっと安全管理のしやすい小屋にでも移しているのだろう。
「草壁さん、怪我は大丈夫なの?」
「あ、はい。怪我ってほどでもなかったですし」
「なら良かった」
「先生こそ、素手でオペラちゃんを受け止めてたけど、大丈夫なんですか?」
「本当は駄目。猛禽は爪で獲物を仕留めるんだから、本気で力を加えられたら大怪我します。緊急事態だったから仕方ないけれど、長袖だからって大丈夫ってものでもないし」
そう言って生方は右腕を掲げる。
「一声命令してから止まらせたから、これで済みましたけれど」
生方の着ている春物の薄いニットにはいくつか穴が開いていた。爪がかかって穴が開いてしまった部分に、もう修復は諦めたのか指を引っかけてみせる。
「そういえば先生、授業中もそのセーターでしたね」
「着替えは持ってませんからね」
「先生たちって、実技の時でもほとんどジャージとかに着替えないでそのままの服装で授業しますよね。どうしてですか」
実技の授業では、生徒たちはみんな学校指定のジャージや体操服に着替える。体育ほどの激しい運動になることはほとんどないが、それなりに動くからだ。
それに魔法を使えば水は飛び散るし炎は舞うし、風は砂を巻き上げるし地の魔法を使えば土も跳ねる。汚れることと安全面を考えれば着替えたほうがいいだろう。
「そうですね、実技だからと言ってわざわざ着替える教師ばかりではありませんね。別に慣例や決まりごとがあるわけではないけれど」
生方は綺麗なシルエットの薄手のニットにタイトスカートという、勤め人としても教師としても何らおかしなところのない真っ当な服装をしていた。ほとんどが立ち仕事であるためか、かかとのないフラットなパンプス。
「まあ、しいて言えば、プライドでしょうか」
「プライド?」
「魔法使いというと、いまだにファンタジー映画や昔話に出てくるようなローブやマントなどの服装をイメージする人がいるけれど、あれは相当昔の話です。当時にしたって儀式や冠婚葬祭などの決まった時、でなければ宮廷仕えであるとか、何かの組織に属した魔法使いくらいしか着ていなかったようです」
蘭花も真木野学園の制服は『普通』だと思っていた。けれどファンタジー映画のような制服を想像する方がおかしいのだと、火連にも言われた気がする。
「魔法使いは差別され、弾圧された歴史がある。だからこそ、自分たちも魔法を持たぬ者と何ら変わらぬ人間なのだと主張する魔法使いたちは、わざわざ奇抜な格好などしません。それに日常に魔法を使うとき、とっさに魔法を使うとき、わざわざ着替えないでしょう」
「普段着で魔法を使うことに意味がある?」
「そんな歴史は関係なく、授業の時くらい動きやすい恰好になっても良いんでしょうけどね。実際のところ、歴史背景がどうこういうより、単に自分の実力の高さを示しているだけなんだけどね」
実力と服装に何の関係があるのだろう。
結月も実技の時でも、ジャケットとワイシャツというスタイルを崩さないけれど。
「魔法の実力が高いものは取り乱さないし、余裕がある。つまるところ、動きやすかろうが動きにくかろうが、格好なんて関係ないってことです。単純に余裕とプライドの現れでしょうね」
「え、それだけ?」
「魔法使いは自分のスタイルを貫くのが好きな人が多いですから。学校の教師には制服もないし、節度をわきまえていればビジネスマンほど服装に決まりもないからなおさらね」
「へー……」
気の抜けた返事になる。まだひよっこの蘭花には、実力者の気持ちなんてわかりそうにもなかった。
「でも、ちょっとかっこいいかも。私もジャージより制服で魔法使ったほうが様になりそうだもんね」
「やめなさいね」
あっさりと切り返された。未熟者はやめておけということだ。
「それで、何かご用?」
「あ、はい」
思わず脱線してしまったが、ちゃんと用事があって蘭花はここに来たのだ。
「あの、先生。私に今日の授業の補講をしてほしいんですけど」
「補講?」
「はい。私、今日の授業で使い魔を全然うまく扱えなかった。だからやり直したいんです」
思わず唇をかむ。
魔法学校に入学して、授業を受けて、何でもうまくできるなんて思ってなかったけれど、それでも今日のことは悔しかった。
生方はどうしたものかと考えるような仕草で、頬に細い指を添えた。
「蘭花?」
二人黙ったところに、別の声が割って入る。
「火連くん」
振り向くと火連がいた。
鞄を持って、蘭花と同じように帰りがけに寄ったようだったが、夏樹や美弦の姿は見当たらない。
「どうしたの、熊谷君まで。ああ、草壁さんのお迎えですか」
生方が当然のように言って、蘭花は思わず声を高める。
「えっ、ありがとう火連くん」
「違うし。っていうか、蘭花がいたこと知らなかったし」
そばに寄ろうとする蘭花をすり抜けて、火連は生方の前に進み出る。
「じゃあなんのご用?」
いつも通り冷静に質問する生方に対して、火連は言いにくそうに目線を落とした。
「えっと」
「用事がないなら帰りますよ。ここも閉めますからね」
遠くでカリヨンの音がする。まだ最終下校時刻には遠いが、授業が終業してからだいぶ時間が経過していた。
「いや、その。先生に、魔法の指導をしてほしいんですけど」
意を決したように顔を上げて、火連は生方に言った。
「それは、使い魔の扱いについて?」
生方の問いに、火連は軽く首を振る。
「いえ、四大魔法のほうです。できれば、炎を重点的に」
「そういえば生方先生、炎の魔法のコントロール抜群だったもんね」
蘭花は先輩ともめた時のことと、今日の授業のことを思い浮かべる。火連もそれが印象的でここに来たのかもしれない。
「俺、小さいころから炎の魔法使うと強すぎて。威力がでかくて危なすぎるから、早く何とかしたくて」
うつむいた火連の横顔に、蘭花はかける声もなかった。
蘭花にとって火連の魔法は強くて頼もしかったけれど、火連自身はもどかしさを抱えていたのだ。
「揃いも揃ってあなたたちは……。まだ1学期でしょうに」
生方はため息をついた。
「そうなんですけど。俺の魔法が危ないのは、先生だってわかったでしょう」
「まあ、確かに今日のは重大事故寸前でしたしね。でも、一年の四大魔法の指導教員は結月先生でしょう。結月先生にお願いしたら?」
「結月先生はのんびりしてるっていうか……。俺が焦ったところであの人、動いてくれそうにないんですよ。それに忙しそうだし」
火連は不服そうにいった。少しだけ、幼い子供が拗ねているように見える。
「結月先生は、生徒ごとの能力に合わせたカリキュラムにかなり気を使ってますよ。結月先生からすれば、熊谷君はまだ焦るような段階ではないということなんでしょう。忙しいのは当たり前です、クラス担任ですから。私は学科担当のみの身なので、確かに結月先生と比べれば余裕があるでしょうけどね」
生方はもっともな理由を並べる。
「結月先生を差し置いて、私に熊谷君を指導する権限はありません」
冷静に言われる分、説得力があった。蘭花も生方に補講を頼むのをあきらめようと思ったくらいだ。けれど火連はなおも食い下がった。
「でも、自主練しようにも、魔法を使うときは厳正なルールのもと使うしかないじゃないですか。誰か先生でもついてくれなきゃ、それすらできない」
「言いたいことはわかるけれど。最近は個別指導みたいな、一部の生徒にだけ肩入れすると色々面倒なんですよ。贔屓だとか平等性に欠けるだとか言われてね」
「……私、そういうの好きじゃない」
会話に割って入って、蘭花は唇を尖らせた。
「別に不正をしてるとか、他の人の邪魔をしようっていうんじゃないのに。面白くない人がいるのはわかるけど、一生懸命にやろうとしてる人をそんな風に言ったら、それこそ邪魔してる」
正義ぶりたいわけでもないのにこんなことを言ってしまうのは、自分のためかもしれなかったし、母のためかもしれなかったし、火連のためでもある気がした。なまじあんな経験をした後だから。
「別に贔屓してもらおうとか、抜け駆けしようってわけじゃないんです。俺はほんとに、まだまだ魔法の勉強しないとだめだから」
お願いします、と火連は頭を下げた。
「本当に、もう」
あきれたように言うと、生方は息を吐くとともに肩を落とした。
「そんなに頻繁には指導できないけれど、余裕のある時に、少しだけならいいでしょう」
「ほんとですか?」
火連は顔を上げた。
「時間のある時だけね。職員室の前に、教員の居場所が書いてあるホワイトボードがあるでしょう。そこの私の欄に、放課後の予定が何も書いてなければここにいらっしゃい」
「ありがとうございます!」
「よかったね、火連くん」
「草壁さんの補講は、悪いけど断らせてもらいますね。二人いっぺんに引き受けるのは無理ですし、熊谷君に関しては正直、危なっかしいものも感じたから優先させてもらいます」
「ええー……」
「悪い、蘭花」
「んー、良いよ。火連くんに頑張ってほしいし。私はもう少し授業で頑張ってみる」
火連に譲るならかまわない。それに恐らく、切実さで言えば火連の方が上だろう。
「さあ、もう帰りましょう。明日以降、ボードを確認するようにしてくださいね」
「はい」
火連の明るい表情に、蘭花も思わず笑みを浮かべた。
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