第6話 魔法と踊る受験生-6
「火連くん!」
蘭花は飛び出した。手すりを乗り越えて、そのまま宙に体を投げ出す。
瞳はどこまでも火連を見ていることしかできなかった。それでも体は動いて、火連を助けるために魔法を使え、と意識が訴えていた。
私は空を飛べる。
それだけを寄る辺に、魔法だけを頼りに、蘭花は七階の高さから宙へと飛び出した。この高さから身を投げるなんてとてもじゃないけれどできないはずなのに、魔法にすべてを賭けた。
吹き付ける風が邪魔をする。重力が火連を恐ろしい速度で地面に引っ張る。
飛べ。
蘭花は強く念じた。
風圧と重力を無視して、魔力が蘭花の体を火連に向かって押し出す。ぐん、と二人の距離が近づいて、蘭花は火連の腕をつかんだ。
もう一度強く飛べと念じると、地上に向かって真っ逆さまになっていた体が持ち上がって、二人はふんわりとした浮遊感とともに宙に浮いた。
「すっげ……」
火連が呆然とつぶやいた。
空を飛ぶ感動を味わう間もなく、ゆっくりと地上に降りていく。地面に足がついたとたん、二人そろって脱力してへたり込んだ。
「火連くん!」
蘭花は火連に飛びついた。体の震えを抑えるように強く抱きしめて、蘭花はわあわあと泣き出した。
「よかったよぉ、落ちなくてよかったよぉ……。怖かった、怖かったあああ、ああああああ」
涙すら出なかった緊張から解かれて、むせぶほど泣いてしまった。
「うん、うん。怖かった、すごい怖かった、ほんとに、死んじゃうかもって……」
そこまで言って、火連も泣き出した。二人そろって泣きじゃくる。
本当に、本当に恐ろしかったのだ。危害を加えられるかもしれない、死んでしまうかもしれない恐怖は、想像を絶するほどだった。
泣くのも苦しくなってきて、ゴホゴホと空咳を吐く。少しずつ息を整えて顔を上げると、同じく泣き止んだ火連と目が合った。
「でも、すごかったな」
「え?」
「蘭花、すごかったな。空、飛んだ」
頬を蒸気させて火連が言った。泣いたせいもあるのだろうが、興奮に頬を染めていた。
「夢中だったから……」
「蘭花のおかげで助かった。ありがとう」
まだ涙の跡が残る頬を持ち上げて火連が笑う。
「私こそ、火連くんが来てくれなかったらどうなってたかわかんないよ。ありがとう、ありがとう!」
涙に濡れた顔はきっとぐちゃぐちゃになっているだろう。鼻だってすすりっぱなしだ。だけど笑ってありがとうと繰り返した。
「火連くん、ヒーローみたいだったよ。炎の魔法で助けてくれた、かっこよかった!」
「蘭花だって。あんな風に人を助けれられるの、空を飛べる人だけだ!」
ゆっくりと火連が立ち上がる。夏の日差しは眩しくて、それでも見上げた火連の顔ははっきりと見えた。
「そんなにすごい魔法が使えるんだ。きっと蘭花はこれからも、大人になっても、その魔法でたくさんの人の役に立つ。助けられる人になるよ」
――ああ。
お礼を言おうとした気がする。謙遜の言葉を口にしようとした気も、何か返事をしようとしたような気もする。
だけどどれも言葉にはならなくて、ただ、自分の中で、何かが大きく実を結ぼうとしていた。
歓喜とか、希望とか、そういうもの。
「うん。私の魔法は人を助けたり、人の役に立ったり、そういうもののために使いたい」
初めて、自分の魔法が認められた。
空を飛んで、火連を助けて。
初めて思い切り使った魔法で、人を助けることができた。
これが喜びでなければなんだというのだろう!
「俺もな、魔法で蘭花を助けられてよかったよ。だから、俺も魔法をいっぱい勉強して、いっぱいいっぱい人を助けるんだ!」
火連が手を伸ばした。その手を取って立ち上がる。
「私も魔法、いっぱい勉強するね」
「高校生くらいになると、魔法学校に入学できるんだ。俺、大きくなったら魔法学校行くんだ」
「うん、じゃあ私も行く」
そっか、と言って、二人笑いあう。
「頑張って立派な魔法使いになろうな!」
「うん!」
まだ、体の芯には恐怖が残っている。それでも希望が上回って自分を奮い立たせていた。
幼い蘭花が踏み出した、最初の一歩だった。
蘭花を連れて行こうとした男は、駆けつけた警察官によって連行された。警察は子どもが誘拐されそうになり駆け付けたというより、マンションの外階段への扉が破壊されたとの通報により駆け付けたそうだ。
マンションのエントランスで蘭花と別れた時、すれ違った男が蘭花と一緒にエレベーターに乗り込んだのを火連は見た。知らない人とエレベーターに乗ってはいけないと、学校で行われた防犯教室で言われたばかりだった。
追いかけたほうがいいのだろうかと火連は思ったが、一度閉ざされたオートロック式の自動ドアをくぐることはできなくて、諦めて帰路につくしかなかった。
それでも蘭花のことが気になって、外からマンションの七階を見上げたり、誰か入って行かないかとエントランスのほうを振り返ったりした。どうにか昇っていけないかと、外階段を見やり、そして連れ去られる蘭花を見つけた。
外階段への扉は火連の身長を超える高さで電子ロックがついていたが、火連は最大限の炎の魔法で鍵を吹き飛ばした。
魔法の防犯対策が施されていなかったどころか、子どもの魔法程度で鍵が吹き飛んでしまうというのもそれはそれで問題だったが、火連の魔法も子どもながらに強力なものだった。
猛スピードで階段を駆け上がり、犯人の行く手を阻む。蘭花を犯人から解放することはできたが、逆上した犯人の反撃にあい火連は窮地に陥った。
結局助けに行った火連が蘭花に助けられてしまったけれど、かくして二人は無事に警察に保護された。
迎えに来た母親が泣いたり怒ったりと忙しかったことと、蘭花のもとにやってきたランファを、とてもきれいなお母さんだな、と思ったことを火連は覚えている。
犯人はランファの熱狂的なファンで、彼女に蘭花という子どもがいたことに平静を失ったらしい。悪いことに、報道で映し出されるランファのプライベートの一部は、偶然にも犯人に土地勘のある場所だったため、草壁家の居住マンションが割り出されてしまった。
犯人の動機は、娘がいたことで犯人の中のランファに対する勝手なイメージ像が壊れたからだの、出産によりランファの魔法の質が落ちたと思い込んだためだの、身勝手極まりないものだったらしい。
この事件は公にならずに、マスコミによる報道合戦にならなかったため、火連は自分の両親が当たり障りなく話してくれたことを知っただけだった。
事件をきっかけに蘭花たちはマンションを引っ越し、それを機に火連と蘭花の交流も途絶えてしまった。手紙のやり取りすらできなかったのは、これだけの事件に巻き込まれれば当然なのだろう。
突然の別れに寂しさを感じながら、いつかまた蘭花に再会する日は来るだろうかと、まだ幼い火連はぼんやり考えていた。
二階から一階までの短い距離を落ちる間に、真子の手を掴み、自分より大きな母の体を抱き寄せた。背が高く、パフォーマンスのために鍛えられた真子の体は蘭花よりも数段しっかりとしていて重い。
いつまでたっても強く敵わぬ母を抱きしめる。短い間に素早く魔法を展開し、床に叩きつけられる寸前で、二人の体がふわりと宙に浮いた。座席シートをよけながらゆっくりと着地する。
「ママ」
声をかけると、真子は呆然としたように口を開いた。
「あなた、何考えてるのよ……」
「え?」
「ママは空飛べるんだからほっときなさいよ、二階から飛び降りるなんて!」
お説教のように勢いよく言われて、蘭花は我に返る。
「そっか……。そうだよね」
「そうよ。あなたに何かあったら、ママ、どうすればいいのよ」
力なく肩に手が置かれる。その手の震えが肩に伝わって、真子が言葉通り怯えているのだと理解する。
「危ないことしてごめんね、ママ。でもね、止められなかったの。ママが落ちるって思ったら、ママが空飛べることも忘れて飛び出しちゃった」
母の手の震え。
喧嘩したって、母の愛情を疑ったことなんてない。だからきっと、最後には伝わるはず。
「だって、私は人を助けるために魔法を使いたいんだもの」
蘭花はゆっくり言葉を紡いだ。
「小さいころ、私が誘拐されかけたことがあったよね。その時、火連くんが魔法で助けてくれて、私も火連くんを助けた。あの時に決めたの、私は人を助けたり、誰かの役に立つために魔法を勉強しようって」
具体的になにかになろうという目標はまだない。それでも、この夢がいい加減な決意だとは思わなかった。だから諦める気なんてない。
「……そう。蘭花があの事件でつかんだ夢は、そういうものなの」
呟くように真子は言った。
「ママはあの事件で、全く別の決意をしたわ」
「別の決意?」
蘭花の問いに、真子は眼差しを強くした。
「蘭花がママの娘だって、認めさせるって」
思いがけない言葉に、蘭花は言葉を失う。
「あなたを襲ったクズ野郎はね、私があなたを産んだことで、『レディ・ランファ』は終わったと抜かしたわ。魔力も減って、パフォーマンスの質も落ちたって言った。『レディ・ランファ』を失墜させたあなたの存在を許せないとかわけのわからないことを言って、あなたを傷つけようとしたのよ!」
「そんなこと……」
確かに、そのような動機を語っていたということは蘭花も多少耳にしている。けれどつまらない言いがかりもいいところだと思っていたし、実際、蘭花を出産した後も真子はほんの少し魔力が減少しただけで済んでいる。フーディエでの真子のパフォーマンスの評判が落ちることもほとんどなかった。
「あの犯人だけじゃない。私だけじゃなくて、蘭花についてとやかくいう連中が色々いたわ。あなたを産んだことは、私のキャリアの中でマイナスにしかならないって、どいつもこいつも好き勝手言いやがって」
普段は口にしない荒い口調で真子は言い募る。
「誰も彼も、私に蘭花を産んだことを後悔させようとするのよ、冗談じゃない!」
吐き出すように真子は叫んだ。
「もし私の魔力が衰えていくとして、別に子どもを産んだせいだけじゃないわ。魔力なんてもともと安定したものでもないし、子供を産む以外にも体質の変化や環境の変化でいくらでも質も量も変わる。でも、言いたい奴はいつまでも言うでしょうね、私がかつてほど魔法を使えないのは、蘭花のせいだって」
劇場の床をかきむしるようにして拳を固めて、心底悔しそうに顔を歪める。
「あなたに空を飛ぶ才能があって、ママはうれしかった。もし私に、本当に『レディ・ランファ』としての終わりが来ても、あなたがママと同じように空飛ぶ魔法で人々を魅了してくれれば、もう誰も文句は言わないでしょう。私が舞台を降りても、あなたが舞台に立っていれば、誰もあなたを責めないでしょう」
蘭花はようやく、事件の後になって急に真子が積極的に魔法を使うように言ったり、レッスンに通わせたりした理由を理解した。
それが母の見栄なのか、愛情なのか見えなくなりそうになった時もあったけど。
「私は、ママが後悔してなければそれでいい」
蘭花は真子の手をそっと取った。
「私は他人に認めてもらえなくても、自分の大切な人が認めてくれればそれだけでいい。ママみたいなパフォーマーにならないことで周りから叩かれたって、ママや、いつか私が助ける誰かが、私や私の魔法を認めてくれればそれでいいよ」
きっと母はたくさんのものと戦っているのだろう。蘭花も随分傷つくことを言われた気がする。
それでも、自分を信じてくれる人がいれば、私は大丈夫。
「ママは私なんていらなかったって思ってる?」
少し意地悪な質問をした。どうせそんな質問は。
「馬鹿言わないでよ!そんなこと思ってるわけないじゃない!」
速攻で否定されるとわかっていたから。
「じゃあそれでいいよ」
蘭花はゆっくりと真子を抱きしめた。
わかってほしかったのは蘭花の方だ。だけど母のことだってわかりたかった。
蘭花、と母が名前を呼んだ。なあに、と返事をするより先に真子が泣きだしてしまった。
まるで子どものように泣く母の背を撫でながら、自分も小さな子どものように泣いて、昔みたいにママに慰めてほしいなあと、ほんの少しだけ思った。それが許されなくなるほど、蘭花はまだ大人でもないだろう。しばらく母と対峙することが多かったから、少しだけ疲れてしまった。
そんなことを思いながら顔を上げると、駆けつけてきた火連の姿が目に入った。それでやっぱりもうちょっと頑張ろう、と思い直して、真子の背を軽く叩く。
「そうだ。私これからはママのことお母さんって呼ぼうかな。もう高校生になるんだし」
「ええ?やぁよそんなの!ママって呼ぶほうが可愛いわよ、絶対!」
老け込みたくない!とよくわからない理論を展開して反抗する真子に蘭花は笑って返す。
「はあい。わかりました、ママ」
まだ戸惑っているような火連と、典子の姿が視界に入る。二人にもきちんと謝って、ちゃんと話をしよう。
あと少しだけ、ママと寄り添ったら。
落ち着きを取り戻して、蘭花と真子はお互いまずは謝った。
真子はきっとまだ蘭花に言いたいことが色々あるだろうし、蘭花だってそれは同じだ。けれど、今度こそ自分の希望を聞き入れてもらえるだろうという気がしていたので、少し心が軽かった。
真子とは家に帰ってから、またきちんと話し合いをしようと約束をした。この場で話すにはきっと時間が足りないし、それに真子はまず典子と和解をしなければならない。もちろん、蘭花もちゃんと謝らなくてはならないけれど、真子と典子が話している間に、蘭花は火連と話すことにした。
「本当にごめんね、火連くん。面倒なことに巻き込んで」
「まあ、解決しそうだから、もうどうでもいいけど」
そっけなく言う火連の顔を眺めながら、蘭花はもう一度聞いた。
「火連くん、魔法学校行かないの?」
もし火連が魔法学校に進学しないのだとしても、蘭花は自分の道を行くつもりだ。それでも、もしお互いが違う道を選ぶなら、それは寂しいなと思わずにはいられなかった。
「……悩んでる」
この時期になっても、と幾分苦しそうに火連は言った。
「魔法に興味がなくなったの?それとも、他にやりたいことができた?」
「いや……、ううん」
言葉を探すように火連が唸る。
「あの、誘拐未遂があった時。直後は俺らすごく興奮してただろ。だからなんかこう、自分たちがすごいことができるような気がして、あんな約束みたいなことしたけどさ」
「うん」
「あの後、蘭花は消えるように引っ越しただろ。それで、連絡も取れなくなって……。で、自分が巻き込まれたことが、親子二人がいきなり消息を絶つレベルでものすごい大ごとだったって気づいて、後になって怖くなって」
消息を絶つ、は大げさだろう。少なくとも真子は舞台にも出てメディアにも取り上げられているのだし。
そう思ったが、火連にしてみれば全く手に届かない場所にいなくなってしまったのだから、消えたのも同然かもしれない。
「マンションの七階から転落死寸前だったってことも、ぶり返して怖くなったし」
「それは仕方ないよ。私だってしばらく高いとこ怖かったし、落ちる夢もまだ見るし」
「じゃあなんで」
火連が語気を強めた。
「なんでそれで、ランファと喧嘩しても、怖いこと思い出しても、約束……誓い?通りに進もうと思えるんだよ」
「だって、火連くんがいたもの」
蘭花はきっぱりと答えた。
「怖いこと思い出したって、それを上回って火連くんに助けられたことや、助けたことが嬉しかったんだもの」
火連は虚を突かれたような顔をする。
「なんだよそれ…」
「そっか……。私は火連くんに励まされてきたのに、火連くんにとって私は、励みにも助けにも、全然、何にもなってなかったんだね。私だけずるいね。ごめんね……」
「俺なんか、今だってランファが落ちたの見て凄い震えてるのに。なんなんだよ、俺だけずっと昔のことびびってんの?情けねー」
震えを抑えるようにコートの袖を握りしめる火連を見て、蘭花は何も言えなくなってしまう。
「俺はてっきり、蘭花も今でも苦しんでるんじゃないかって、申し訳なく思ってたっていうのに」
「え?」
「だって、犯人が逆上したのなんか完全に俺のせいだしさ。結局、助けに行ったつもりが俺のほうが助けられたんだ。それなのに、調子乗ってかっこつけて『立派な魔法使いになろう』なんて言ってさ。あんな怖い思いしたのに、つまんない約束したことを、蘭花は後悔してんじゃないかって思ってたのに……」
「火連くん!」
火連の言葉を最後まで聞かず、蘭花は火連に飛びついた。
「はああ?え、ちょ、おま、いきなりなんだよ!」
「火連くん、やっぱり優しい!」
感極まって、蘭花はもうどうしようもなく火連に飛び込んでしまった。
「火連くん、私のことも心配してくれてたんだ!」
「そりゃあんなトラウマ級の事件に遭った後いきなりいなくなれば、心配になるに決まってんだろ!だから、蘭花もずっとトラウマを引きずってて、魔法学校に進学しようなんてもう思ってないと思ってたから」
「ごめん、私はずっと変わりなく魔法学校に進学しようと思ってました!」
「ああそうかよ!くっそ、俺の八年返せ!」
「返す、八年でも十年でも返すよ!だから、どんな進路でもいい、これからも一緒に頑張ろうよ!」
飛びついた蘭花を引きはがしながら火連がわめく。
自分ばかりが高揚しているのじゃどうしようもないと思うのに、この喜びにみんなを巻き込んでしまいたかった。
二人をあきれたように眺めている真子と典子の目元はそれでも和らいでいる。
いきなり何もかもがうまくいくとは思わなかったけれど、それでも色々なことがいい方向に動き出していると、蘭花にはそんな風に思えた。
分厚いコートとマフラーを脱ぎ捨てる季節は、もうすぐそこ。
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