第5話 魔法と踊る受験生-5
「どうだった?『フーディエ』のショーは」
真子に連れられ、二階席への階段を上る。
真子は花のような衣装から私服に着替えてはいたが、隙のない装いだった。ショーの最中は外していたアクセサリーもつけていたし、化粧も綺麗に直している。
火連は蘭花以上に戸惑いながら後に続いていた。
「……すごかったです」
興味がない、と言い放っていた火連はそれだけ答えた。真子は笑顔を浮かべる。
「楽しんでもらえたのなら良いのだけど。後で典子がキーユを連れてくるから、二人の芸も見せてもらいましょうね」
「はあ」
火連の気の抜けた返事に、真子は少し声のトーンを落とした。
「ごめんなさいね、お勉強が忙しい時期にいきなりチケットを送り付けて」
「そうだよ、ママ。何だっていきなり火連くんを呼んだの?なんで私に話してくれなかったの?」
二階席にたどり着く。
席の間隔が狭くステージまでの距離も遠いために好まれる席ではないが、高いところから劇場全体を見渡せるのは悪い気分ではない。
真子は二階席最前列の手すりにもたれながら言った。
「んー、別に蘭花を喜ばせようと思って呼んだわけじゃないし」
「はい?」
我知らず、蘭花の声が棘を含んだ。
「火連くんに蘭花を説得してもらおうと思って」
「説得?」
すました顔の真子に説明を求めようとして、一度火連の表情もうかがった。火連は渋い顔で本日何度目かのため息をついた。
「俺だってわけわかんないわ。手紙は『あなたの言うことなら蘭花は聞くかもしれない』って書いてあったけど、知るかっていうの」
「火連くんに迷惑かけると思ったけどね。でも、蘭花はあなたとの約束を律儀に守ってるみたいだったから、そこはちょっと火連くんにも何とかしてほしいかなあって」
約束。
その言葉に蘭花の胸が跳ねる。
「いや、そんな小さい頃の話されても困るんですけど」
「でしょうね。ほら蘭花、そんな小さなころの約束なんて普通は覚えてないし、覚えてても思い出で終わっちゃう程度のことなのよ。そんな昔のことばかりじゃなくて、もっと将来のことを見なさい」
胸元を握りしめる。
なんでこんな勝手なことばかり言われなくてはならないのだろう。ずっと母は一方的なことばかり。
でもそんな母の言い分より、それよりも、今は。
「火連くん、は?」
具体的な質問にならずに名前を呼んだ。それだけで精いっぱいだった。色々なことを問いたい気もしたし、何を聞くのも怖いような気もした。
「……俺は正直、勝手にしてくれって感じ」
火連は蘭花から目をそらした。
きっと戸惑っているのは火連の方なのに、困らせているのは蘭花たち親子の方なのに、それなのに自分の心が痛むのは抑えようもない。
「そっかあ……」
痛む胸を押さえつけて蘭花は言った。
「ごめんね、火連くん。迷惑かけて。ママちょっとやりすぎだと思うし、火連くんの言うとおり、結局は私の勝手だもん」
「いや、その、小さいころのことだけど」
火連が言いにくそうに尋ねる。
「うん、あれは約束じゃない。火連くんと約束したわけじゃない。私は」
蘭花は顔を上げた。
「自分に誓ったの」
挑むように、蘭花は真子に言った。
「だから私は、火連くんが魔法学校に行かなくったって、昔のことを覚えていなくったって関係ない。私は自分の意志で魔法学校に行って、芸のためじゃない、人を助けるための魔法を勉強するの!」
蘭花の強い言葉に、真子は虚を突かれたような表情をした。言葉を失ったかのように唇をぎこちなく動かす。
「どうしてそこまで……。ママわからないわよ、全然わからない」
「私こそわからないよ。ママが自分の仕事に誇りを持ってるのはわかるけど、私にそこまでこだわる理由がわからない」
迷子の子どものような気分だった。分かり合えないことがこんなにも心細い。
「だってあなたはママの娘なのよ」
すがるような目だった。蘭花と同じように心細い思いをしているのではないかと思わせるような。
「子どもは何があっても親の跡を継ぐべきって言いたいの?」
「違う、そんなことじゃない、そんなこと言いたいんじゃない」
拳で額を抑えながら呻くように真子は言う。こんな寄る辺ない子どものような顔をこの母が、レディ・ランファが見せることがあっただろうか。
「いい加減にしなよ、真子さん」
途方に暮れていた蘭花の耳に、厳しい声が響いた。
「典子先生」
二階席の入り口に典子が立っていた。キーユを抱きながら真子に歩み寄る。
「もういい加減にしなよ。真子さんが蘭花ちゃんのこと大切に思ってるのはわかるけど、そこまで行くともうただの親のエゴだよ。蘭花ちゃんのためにならない」
「言ってくれるじゃないの、典子」
真子は典子を恨めし気に睨んだ。典子は迎え撃つように言い返す。
「私も親にはそれなりに悩まされてきましたんで。親すらはねのけて進みたい道を行きなさいって、真子さんは励ましてくれたよね。芸の道以外だったら励ましてもらえなかったってことかしら」
「……あなただって、せっかく指導してきた生徒が違う道に行くって言ったら面白くないんじゃないの」
真子は苦々しそうに言った。
「そのことについては……、真子さんにずっと謝らなくちゃと思っていたけれど」
一瞬、典子は真子から目をそらした。けれどすぐに真子のほうを見つめ、はっきりとした声で言った。
「私ね、蘭花ちゃんに個人レッスンしてないの。蘭花ちゃんがレッスンより受験勉強したいっていうから、その希望を優先して勉強させてたの」
「は?」
真子は信じられないものを見るような目で典子を見た。
「それって、蘭花にダンスとかの個人レッスンしてないっていうこと?貴重な時間使って、関係ない勉強させてたっていうの?嘘でしょう?」
「本当です。そのことについては、申し開きの余地もなく謝罪いたしますが」
「あなた、自分が何をしたかわかってるんでしょうね。プロとしての仕事を全うすることなく、蘭花に無駄な時間を過ごさせたのよ」
真子の糾弾に、蘭花は慌てて間に入ろうとした。
典子に無理をさせたのは蘭花自身なのだ、責められるべきは自分だ。
しかし次の瞬間、ぱぁん、と耳に痛い音が響いた。
「先生!」
蘭花は思わず叫んだ。真子が典子の頬を張り飛ばしていた。勢いによろめいて最前列の手すりをつかんだ典子の腕から、キーユが滑り降りる。真子は怒りに満ちた表情で典子に詰め寄った
「なんで?なんでよ。典子まで私を虚仮にするつもりなの、ねえ!」
鬼気迫る真子の様相に、完全に巻き込まれた形の火連は言葉を失って立ち尽くしている。止めなくてはと思うのに、蘭花も動くことも声を上げることもできなかった。
「誰も彼も、私や蘭花を何だと思ってるの!」
真子は典子に掴みかかった。
再び典子が体勢を崩したその時、人のものではない叫びが響いた。
獣は声を上げ、跳び上がって真子の顔めがけて爪を振り上げた。主を助けるため、キーユが真子に跳びかかったのだ。
「キーユ!」
突然の使い魔の乱入に尻餅をついた典子は、慌てて身を起こし命令をしようとするが間に合わない。興奮したキーユは構わず真子に爪を振りかざし、噛みつこうとする。
「痛っ!ちょっと、やめ……」
のけぞるようにしながら真子はキーユの爪から逃れようとする。振り払った真子の手から逃れるようにして床に着地したキーユはそれでも収まらず、その足に噛みつこうとした。
真子は手すりをつかんで体を持ち上げ、キーユを蹴飛ばそうとする。真子の足は床から離れ、不安定になった体はそのまま手すりの向こうへと倒れこんだ。
「ママ!」
蘭花は弾かれたように飛び出した。一階席に転落していく真子をめがけて腕を伸ばす。
誰もが凍り付く光景は、蘭花がかつて見た光景とあまりに似ていた。
「じゃあね、火連くん。また明日ね」
「うん、またな」
夏休みの近づいた暑い日のことだった。
一学期の間ずっと火連と一緒に下校していた蘭花は、学校生活にもずいぶんと馴染めるようになっていた。火連が励ましてくれたおかげで、気後れせずにクラスの輪の中に入っていけるようになったし、教室で一緒にお喋りしたり遊んだりする友達もできた。
それでも下校時は火連と二人で帰るのは変わらなくて、今日もマンションのエントランスまで一緒だった。
「うお、涼しー!」
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、冷房の冷気が外に吹き付けた。目を細めながら、火連が入り口に頭を突っ込む。
「今日暑いもんね。火連くん、ちょっと涼んでいけば?」
「んー、でも寄り道したら駄目だからなあ」
口ではそう言いつつも、火連はふらふらとエントランスに入る。暑さに溶けてしまいそうな火連の様相に蘭花は笑って言った。
「そうだ、うちにアイスがあるんだ。ここに持ってきてあげるから食べていきなよ」
言いながら蘭花はオートロックを開錠した。エレベーターホールへの自動ドアが開いたので、蘭花は火連を手招きする。
「うーん、いや、そしたら完全に寄り道になっちゃうよ。やっぱりもう帰るわ」
ひどく惜しそうな顔だったが、帰り道に寄り道したりお菓子を食べたりすることはやはり後ろめたさがあるのだろう。火連はくるりと踵を返した。
「じゃあな」
火連が外に一歩踏み出す。すれ違うようにして外から男性がエントランスに入ってきた。
「あ、うん、ばいばい!」
火連の姿がその男性の陰に隠れるようになってしまったので、蘭花は慌てて挨拶をする。
そのまま男性がこちらに向かってくるので、邪魔にならないうちに蘭花はエレベーター前まで進んでボタンを押した。ほどなくして降りてきたエレベーターの扉が開いて、蘭花はそのまま中に乗り込んだ。すぐに男性が乗り込んできたので、扉の横にある『閉』ボタンを押して、家のある7階のボタンを押す。
(いけなかった、かも)
エレベーターが動き出してから、蘭花は体を強張らせた。
知らない人と二人きりでエレベーターに乗ってはいけないと、母から言われてはいなかったか。学校でも教わったはずだ。
今までこんなことなかったっけ、このマンションに住んでいる人だろうか。色々考えを巡らせるが、もしこういった状況になったらどうすればいいかを思い出せなかった。
マスコミに悩まされる母を見ているので、母の言いつけは一層身に染みていたはずなのに。
それでもまさか悪い人や変な人ではないだろうと思いつつも、男性のほうを見るのは不安だった。
男性の年のころはわからない。というより、蘭花にしてみれば大人はみんな大人で、せいぜいお兄さんとおじさんと、おじいさんの区別があるくらいだ。黒いスポーツキャップのせいで顔がわからなかったが、夏の日差しのもとでは当たり前の格好だった。
早く七階につかないかな、この人早く降りないかな、と思いながらランプのともる階数表示を眺める。
そうしてどきどきしていたら、ピンポン、と音がしてエレベーターが六階で止まった。外界への扉が開いて、男性がエレベーターを降りていく。
気づかないうちに、蘭花が陣取っていた扉横とは別のボタンを押していたのだろう。
蘭花は安堵の息を吐いて、再び七階を目指す階数ランプを見つめた。ランプが止まって、ピンポン、という音とともに扉が開く。扉が閉まらないうちに素早く降りて、もう一度ほっと一息。背後の扉が閉まったところで、蘭花は廊下を進もうと体の向きを変えた。
瞬間、蘭花は息をのんだ。
黒い人影がそこにあった。黒いスポーツキャップと、同じ色のTシャツ。
蘭花と一緒にエレベーターに乗り込んだ人だった。なんで、どうして、六階でエレベーターを降りたはずの人が、今、七階の蘭花の目の前にいるのか。
蘭花は素早くその場から走り出した。幸いにして、男は蘭花の家とは逆方向を塞ぐように立っていた。早く家に飛び込んで、鍵をかけて。
「……っ!」
体に突然の衝撃。急に後ろからランドセルを引っ張られて、尻餅をついた。
逃げようとしてランドセルをすり抜けるが、体勢を立て直す間もなく、男に体を抱えあげられる。そのまま乱暴な動作で肩に担ぎあげられて、荷物のように運ばれていく。
大声を出さなくてはと思うのに、恐怖のあまり声が出ない。それでも何とか逃げようと身をよじるが、男はなおも腕に力をこめる。そのまま外階段まで連れていかれて、今度は七階の高さから振り落とされそうな恐怖に固まった。
どこに連れていかれるんだろう、何をされるんだろう、この高さから放り投げられたらどうしよう!
(こわいこわいこわい!!)
恐怖が頭も体も支配する。
平和なはずの真昼のマンションで、なんでこんな悪夢のようなことが起きるのだろう。このままやり過ごせるわけもないだろうに、逃げようにも体が動かない。助けを呼ぼうにも声が出ない。
(だれか、たすけて)
祈りながら固く目をつぶるしかできない。
「蘭花!」
強く蘭花を呼ぶ声がした。閉ざしていた目を開けて、不自由な動作で声がしたほうを振り返る。
「火連くん!」
大きな声で名を呼ぶ。
先ほど別れたはずの火連がそこにいた。火連の姿を見つけて、喉を縛っていた見えない糸がほどけるように声が出た。男が下ろうとしていた外階段を昇ってきたようで、火連は息を切らせながら立ちふさがる。
「わああああああああ!」
階段に火連の大声が響き渡る。男と、蘭花でさえも一瞬あっけにとられてしまった。
「助けてー!誘拐されるー!誘拐犯ー!」
危険が迫ったら大声を出す。それはとても的確な判断だった。
「きゃー!!」
同じように蘭花も大声を上げる。火連と一緒なら声が出せる。
子ども特有の甲高い声がわんわんとマンションの壁に反響した。きゃあきゃあと騒ぎながら、蘭花は高さを忘れて激しく暴れた。
「クソッ!」
男は悪態をつきながら、蘭花をその場に乱暴に下ろした。
「った!」
階段の段差に体をぶつけて、痛みと衝撃に思わず声を上げる。男は階段を駆け下りて逃亡を図るが、火連は身構えて右手のひらを突き出した。
「待て!」
男を制止する声を呪文とするように、火連の手のひらから炎が噴き出した。噴き出たのは一瞬であったが、炎は男の腕を直撃した。
「熱っ!」
思いがけない魔法の攻撃に、男は悲鳴を上げた。
焦った様相で階段を突進しようとするが、なおも手のひらを構える火連を見るや否や、怒気も露に火連に掴みかかった。
「このガキ!」
構えていた火連の細腕はそのままひねりあげられた。
火連は途中、重たいランドセルを下ろしてきたのだろう、小さなその身一つ、あまりにも軽い。ただでさえ魔法を使った火連は、抵抗する力も残ってはいなかった。
男はそのまま掬い上げるようにして火連の体を持ち上げると、勢いをつけて腕を振り上げる。七歳児の体など、大人の男が本気を出せばいとも簡単に振り回せてしまう。
火連の体は、そのまま階段の手すりの向こう側に放り投げられた。
蘭花は絶叫した。恐怖が一瞬のうちに蘭花の眼前に突きつけられ、叫びとなって喉から飛び出した。声も上げられないまま墜落していく火連の体。蘭花も手を伸ばすこともかなわずに、重力にからめとられていく火連をただ見ていることしか――。
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