祖父よ
子供の頃、居間に座る祖父の背中がとてつもなく怖かった。
ガリガリで背はさほど高くなくて、おまけに猫背。そんな祖父のことを僕は恐れ、避けていた。
……いやその前に、謝らないと。ごめんよ、風香。
いきなりわけのわからんところで話をぶった切って、泣いて、そして風香に慰めらるまでしたなんて。僕は、兄ちゃん失格だな。
でも、もう大丈夫。ここからはちゃんと話すよ。
僕はおじいちゃんのことを恐れていた。だから僕は、おじいちゃんを避けていたんだ。
おじいちゃんが体調を崩しても、ほぼお見舞いにはいかなかった。多分行ったのも一回きりだったと思う。
その時のことは、覚えている。断片的に。
大人たちが病室で話している間、僕は病院の廊下の椅子で漫画を読んでいた。何を読んでたかは覚えてない。だけど、ふと見上げた視線の先にきれいな枯山水のミニ庭園みたいなのが見えたんだよ。それだけはなぜだか妙にはっきりと残っている。で、それを眺めながら思ったんだ。お腹がすいたから早く帰りたい、と。
ったく、ほんとどうでもいいことばっかり考えてたよなぁ。そんでそういうことに限ってはっきり覚えてる。……大切なことは忘れるのに。
あ、まずい、また泣きそう…………よし、何とかセーフ。
話を、続けるよ。
それから、きっと病室に入ったのだろう。でも、病室の中のことで覚えているのは、窓の外に病院の別棟らしきものが見えたことだけ。おじいちゃんの表情もその姿も、或いはそこで何を話したのかも、いや…………おじいちゃんと話したのかさえも、僕は覚えていない。
きっと僕はろくに話もしないまま、面会を終えたのだろう。
もはやそれは、お見舞いなんて呼べる代物ではなかった。
そして、この時の記憶はこれだけでおしまいだ。
その次の記憶では、もう、おじいちゃんは亡くなっていたよ。
おじいちゃんが入院してから亡くなるまで、一年間もあった。
なのに、その中で覚えていることは……それだけだ。
……それからの二十年。祖父を思い出すことはなくなっていった。
どんな声音で、どんな話し方で、どんな表情で、どんな仕草をしたのか……それを思い出すことは、もうできない。
ただ覚えているのは真っ白な髪の毛と炬燵に入ったその細身の背中だけ。
きっと厳しい人だったのだろうと思っていた。怖い人だと思っていた。
でも……僕は間違っていた。
この間、ミルクセーキを飲みながら、おばあちゃんがふと呟いたんだ。
その昔、幼い僕がミルクセーキのおかわりを欲しがった時に、おじいちゃんが自分の分を僕にくれたんだと。
些細なことだ。でも、僕にとってそのことはとてつもなく衝撃だった。
だって、僕の記憶の欠片が示してきたおじいちゃんはそんなことをする人じゃなかったんだ。いつも僕に背を向けて座り、無口なままにテレビを見ている……そんな人だったはず。
なのに、事実は違った。興味が湧いたよ。おじいちゃんが、本当はどんな人だったのか。
それからたくさん話を聞いた。僕が、風香が、侑芽が、どれほどおじいちゃんに愛されていたのかを。時に、おじいちゃんへの不信感を抱えたり、その人となりが迷子になることも少なからずあった。でもそうやって、おじいちゃんのことを一つずつ知っていくうちに、僕はおじいちゃんを身近に感じるようになった。
おばあちゃんに感じるような愛しさが胸の奥から溢れてきた。
でも、おじいちゃんへの想いが募るほどに、気づかされる。
自分がどれほど取り返しのつかないことをしてきたのかということに。
僕は、そんなおじいちゃんの愛を反故にしてきた。
それも、二十年、いやもっと長い間にわたって、僕はおじいちゃんを傷つけ、そして貴重な時間を無為に過ごした。
そのことが厳然たる事実として、僕を責め立てる。
今はただ、おじいちゃんに会いたい。
会って、一言謝りたい。
でももうそれすら叶わない。
僕がおじいちゃんに対してしたことは……いや、何もしなかったことは、もはや取り返しがつかない。
もう、どうすることもできないんだよ。
**
「……写真を見せてもらったんだ。アルバムの写真を。そこの写真には、おじいちゃんと僕、そして侑芽が笑顔で収まっていた。」
自分でも驚くほどに静かな声で、僕は呟いた。
それは、この数日に及ぶ祖父の記憶との邂逅のはじまりの出来事。
ここまでの長い長い僕の話を、ただ静かに聞いてくれていた妹は、また新しく始まった話に、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
「小学校に上がる前の僕だ。おじいちゃんの腕の中で……とても幸せそうだった。でも、同じような写真は、小学生になってからは見つからなかった。一枚も」
爪先が手のひらに食い込んで、痛い。そのことに気が付いて、僕は気づかぬうちに腕に込めていた力を、ゆっくりと抜いた。
「もし、少し歯車の食い違いがあれば……もっと写真は多く残っていたかもしれない」
「兄さん……」
後悔と、申し訳なさと、そして、やるせなさ……泣きたいくらいに胸が痛む。
でも一方で、誰かにその胸の内をさらけ出したことで随分と心が楽になったようにも感じていた。
「風香、ありがとう。少し楽になったよ」
「え?」
「話を聞いてくれて随分と楽になったよ。聞いていて気楽な内容でもなかったろうに、ありがとう」
そう言って僕は妹に微笑む。
この言葉に嘘はない。
自分で抱え込んでいたものを吐き出すだけで、これほど物事が整理されてスッキリするのかと、三十年生きてきて初めて知った。
もちろん、後悔が消えたわけでは無い。この想いは、そんなに優しいものではないし、簡単に終わらせて良いものでも無い。
きっと、その受容は、これから僕自身がどのように生きていくかに委ねられているのだと思う。
祖父の話を、聞き、何を感じ、そしてどう生きていくか……それ次第だろう。
--だから、祖父よ。
向こうから、見ていてください。そして、いつかまた、僕と話をしてください。
目の前の仏壇を見上げて、僕は心の内でそんなことを語りかけた。
そんな僕の隣で、小さな溜息の零れる音がした
「……兄さんは優しいよ」
「え?」
「私ね、おばあちゃんから若い頃の話を聞いた時、ちょっと兄さんを羨しく思ったんだ」
「僕を?」
「うん」
妹は小さく頷いて、それから「あはは」と笑い声を立てた。
「そして、同時に、おばあちゃんの事も羨ましいと思った」
「おばあちゃんを?」
「酷いよね」と呟いて、妹は仏壇を見上げる。
「でもね、私はおばあちゃんが大切な人に寄り添う心を持っている、そのことが羨ましいの」
そう言って、妹は悲しげに微笑んだ。
「私は、何を言ってあげたらいいのか……私はわからない。兄さんに、何を……。それが分からなくて、私はただ聞くことしかできなかった。涙を流す兄さんの隣にいることしか出来なかった」
「風香……」
「さっき、こっそりおばあちゃんに聞いたんだ。どうして、昔話をしようと思ったのか」
「おばあちゃんは、なんて?」
「義姉さんとの結婚や、ぼんやりとした将来について悩む兄さんの、一欠片の勇気になれば良いと思って、らしいよ」
ぎょっとして、思わず妹の横顔をまじまじとみると、彼女も仏壇から目を切って僕の視線を受け止めた。
「私にとっての兄さんは悩みなんてない、いつでもまっすぐに突き進む人。だから、まさか悩みがあるなんて思っていなかった。でも、おばあちゃんはそんな悩みや葛藤に気がついて手を差し伸べた。そんな優しさと賢しさが私は羨ましくて、自分が情けないよ」
僕は何も言えなかった。何を言っていいのか、分からなかった。
お互いに黙りこくったまま。蝉の歌すら、聞こえない。
やがて、その凪いだ湖のような静寂に雫を落とすように、床の軋む音が聞こえた。
「お二人さん。ご飯、出来てるよ」
大叔母の声。どうやら、なかなか食卓に顔を出さない僕らを、呼びに来たらしい。
「うん……今行くよ」
大叔母の呼びかけをトリガーにして、僕はようやく口を開き重い腰を上げる。
「ほら、風香ちゃんも」
「うん」
座り込んだままだった妹もやっと立ち上がる。
それでもどこか物憂げな表情の妹に、結局僕はどんな言葉を掛けたらよいのか分からないまま、ただその後ろについて廊下を歩くだけだった。
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