遥かなる日々

 祖母の話を聞いてから、数時間。僕は仏壇の前に座り続けていた。

 ここに来たときはまだお昼を過ぎた頃だったが、今ではもう辺りは薄暗くなっている。

 しかし、世界が闇夜に閉ざされ雨音が僕らを包み込んでもなお、僕は残った押入れの片付けを進めることができないでいた。


「なんか……壮大な話だったなぁ」


 祖母と祖父の物語は、どこまでも切ないものだった。

 祖母がその人生において何をどれだけ失いながら生きてきたのか……いや、そもそも祖母が大切なものを失っていたということさえも初めて知って、僕は決して小さくはない衝撃を受けていた。

 祖母は自分の話をほとんどする人ではなかった。その理由について深く考えることはなかったし、何か理由があるだろうとすら考えたことはなかった。

 祖母がどれだけの思いを抱えて戦後を生きてきたのか。そのことを知った今、その七十五年という年月がそれまで思っていたよりもはるかに重く長大なものとして、僕の胸を押しつぶそうとしている。

 話を聞いた直後に感じた縁遠さは、その歴史を軽々には受け入れることが出来なかったからだろう。


 また、それと同時に祖父に対する思いも、ある種のものは寛解し、またあるものは新たな疑問として整理された。

 ――こういうと、まだ祖父への不信が残っているようにも映るだろうが、それはもうない。

 祖母の話の中で、祖父が祖母を大切にし、そして祖母もその祖父の思いによって癒され過去を清算できたのだと知ったときに……現金かもしれないが僕は祖父のすべてを受け入れることが出来た。

 祖父は僕が勝手に作り上げていた幻影のような冷淡な人間ではなく、優しさにあふれ、身近な人を思う心を持っていた……ただそれをはっきり感じ取ることが出来ただけで、僕は満足したのだ。

 たとえ、大川や河野、そして幼き日の僕にどのように見えていたとしても、祖母を包み込んだその優しさや、愛情は本物だった。

 そして、そこから感じたこともある。

 祖父は、祖母に対して徹頭徹尾、誠実に接した。

 ……いや、確かに普通に考えて、引き取った相手と結婚なんて、光源氏が若紫を理想の女性と育て結婚する様を連想させるし、それを誠実と言ってよいのかには疑問もあるが。

 それでも彼は祖母の問題には共に立ち向かい、そして自身の孫に対する悩みについては祖母に相談をした。

 それは、まさしく誠意であり、そして愛だ。

 一方の僕はどうだろうか。

 彼女に向き合うことを恐れ、自分の抱える悩みも晒すことはない。ただ、逃げて、問題を先送りにしているだけだ。

 そう気が付くと僕は、このタイミングで先達の導きが示されたことで、自分の為すべきことがはっきりと見えたことはありがたいとも思った。

 ここまでジャストタイミングだと、昨晩、従妹に話したことが祖母に漏れたことを疑ってしまうが、もしそうだとしても、それはそれでよしとしておこう。

 だって、とにかく今、僕は「知れてよかった」と思っているから。

 祖父のことも、そして祖母のことも……知ることが出来てよかった。


 ただ、だからこそ、疑問も残る。

 そもそも、なぜ祖母だけが特別扱いされたのか。

 それがわからなかった。

 

「何か理由があったのか……」


「ここにいたんだね」


 一人だと思って呟いていたら、すぐ後ろから声がかけられた。おおかた侑芽がいるのだろう、とロクに声も聞かず見当付けて、それに対して僕は上の空のまま適当に返事をする。


「うん」


「もう、随分暗いよ」


「あぁ」


「電気つけないの?」


「あぁ」


 ボンヤリとしていたら、突然ぱちっと電気がつけられた。

 真っ暗闇にすっかり慣れていた目には白熱電球の灯りはあまりにも眩しく、目の前がしばらくホワイトアウトする。


「おい、侑芽。いきなり何するんだよ」


「真っ暗なとこでぼーっとしてるからだよー! それに私は侑芽お姉ちゃんじゃない!」


「え?」


 その言葉とそして声に僕は目を細める。

 次第に明るさに慣れていく目が眼前に立っていた女性のシルエットをはっきりと捉え始める。


「愛する妹も見分けられないなんてひどい兄貴だこと」


「風香!?」


 そこには驚くことに、大分にはいるはずのない妹が立っていた。


「どうして!? いつから!?」


「へへへ、実はこっそりこっちにくる電車のチケット取ってたんだ」


「資格試験があったんじゃ……」


「そ。で、終わり次第そのままこっちに来た」


「驚かせようと思って言ってなかったけどドッキリ大成功だね」妹はそう笑ってから、手招きをした。


「晩御飯できてるから早くきてね」


 積もる話は夕飯の席で、と背を向ける妹に、僕は「なぁ」と声をかける。

 昼間に祖母の話を聞いてから数時間、一人仏間でボーっとしている間に随分と祖母の話と自分の心の中は整理がついた。でも、また祖母と顔を合わせる前に誰かと話せるのなら、話しておきたいと思ったのだ。


「あのさ……」


 だが、呼び止めてから気が付く。

 朝の話の場に、妹はいなかった。そんな相手にどこまで伝えるか、何を伝えないほうが良いか、そしてどう伝えるべきなのかが分からなくて一瞬口ごもる。

 どこまで言って良いのか分からなくて、言葉を選んでいると、妹は僕の目の前までやってきて手を取った。


「さっき、おばあちゃんとおじいちゃんの昔話を聞いたんだってね」


「聞いたのか?」


「うん。簡単に、だけどね」


 妹は黒いボブの髪の先をクルクルと指でいじりながら答える。


「結構衝撃的な話だった。でもね、驚いたのはそうなんだけど、一方でなんだか現実感がなくてちょっとふわふわした感じだった」


「そうなのか?」


「……お祖父ちゃんが亡くなったのって、私が一歳の時でしょ? 全く覚えてないから、逆に『そんなこともあったんだなぁ』ってくらいにしか取れなかったんだよ」


「そう……か」


 妹の言葉に、思わず苦笑いが零れた。

 そりゃ、そうだろう。生きていた祖父と関わり、色々と思うところのある僕と、そもそも祖父の記憶があるはずもない妹で、感想が同じになるはずはない。

 そうは分かっていても、やはりどこか体の力が抜けるような感覚は誤魔化せなかった。

 そうなってから、初めて気が付く。

 共感したかったのだ。

 誰かと、今この胸の中を強く圧迫する莫大な祖父への想いを、ゆっくり擦り合わせながら解していきたかった。

 このまま、祖母と会ってしまったら、きっとこの想いはパンパンの風船のように暴発してしまう。その前に少し空気を抜いておきたかった。

 苦笑いは、そんなことを考えている自分に気がつき、思わず零れたものだった。

 そのまま床に尻餅をつき、こめかみに手をつき目を閉じる。

 そうして初めて、頭が知恵熱で熱くなっていることに気が付く。

 そんな僕の隣に、妹がやってきて腰を下ろした。


「でも、兄さんは違うでしょ?」


「え?」


 妹の言葉に、ハッと目を開け口をポカンと開けた。


「何が?」


「この数日間、色んな人にお祖父ちゃんのことを聞いたんでしょ? この間電話でそう言ってたよね?」


「……うん」


 曖昧に頷き、改めてこれまで話した人々のことを思い返す。

 優しい、強欲、危うさ……。

 その口々に語られる祖父の姿は、どう考えても一本の線では繋がらないような要素で満たされた複雑な人物像だ。


「……僕ははじめ、おじいちゃんのことを覚えていなかったんだ。覚えているのは、細くてどこか近づきがたいような猫背の背中だけ。でも、いろいろな話を聞いた。僕とそして風香への想い。周囲の人へのやさしさ。おばあちゃんとの仲睦まじい様子。そして、おばあちゃんへの愛……」


 指折り数えながら呟く僕を、妹は何も言わずに見つめる。


「もちろん良いことばかり聞いたわけじゃない。それでも……知ることが出来てよかったよ。……うん。よかった」


 この数時間で得た結論を妹に伝えて、自分の言葉に頷く。

 アウトプットしたことで、少しガス向きが出来たように気持ちは軽くなった。

 しかし、少し整理された頭で自分のの心の中を見てみると何かまだ残っているような気がして、そんなはずがないと自分の言葉に再び頷く。


「うん。良かったんだよ……な」


「兄さん?」


 妹の困惑したような声が聞こえてきた。

 その声に顔をあげると、彼女は心配そうに僕の肩に手をかけた。


「兄さん……どうして、泣いているの?」


「え?」


 言われるままに目頭に指を当てると、確かに涙が流れていた。


「なんで……」


 分からない。

 なぜ涙が流れるのか、わからない。


 ただ両の手で顔を覆うと、かつての僕の脳裏に焼き付いていた、どこか恐ろしい細身の背中が瞼の裏に浮かび上がった。

 いや、もう違う。

 怖いと思っていたその背中は、いまでは寂しく哀しみをいっぱいに湛えた、小さな背中にしか見えなくなっていた。


「あぁ……」


 声が、零れた。


 あぁ、そうか。そうなのか。


 なぜ涙が流れるのか。


 僕は、哀しかったんだ。


 もう二度と、自分の失態をやり直すことが出来ないということに気が付いてしまったから。


「兄さん……お兄ちゃん、大丈夫?」


 おろおろとする妹の声が聞こえる。

 本当なら、すぐにでも何かを言ってあげたい。でも、一度口から吐き出した思いは、堤防に空いた穴から流れる水のようにもはや留める事など出来なくなっていた。

 やがて、妹は僕の体を抱きしめ、優しく背中をさすってくれた。

 そんな彼女の胸の中で、僕はただ子供のようにいつまでも、押し殺しくぐもった泣き声をあげ続けた。

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