天獄
昭和28年の夏。
私が二十歳になったのを契機に、私とおじいさんは結婚した。その頃にはおじいさんの家族と何のわだかまりもなく過ごせるようになっていたから、結婚の話もとてもスムーズに進んだ。
当時はまだ戦前戦中の空気が残っていて、恋愛結婚なんてほとんどなかった。けれど、おじいさんはそんな時代にあっても私を待っていてくれた。
私は十二の頃から彼のことを好いていた。許されないかも知れないとは思いつつ、そして依存の形であるとも分かっていながら、それでも彼との日々を夢に見ていたわ。
--他に好きな人が出来たりしなかったのかって?
おじいさんはあの空襲の日にただ一人、私に手を差し伸べてくれた。いわば、ヒーローのような存在。そんな人がいれば他の男なんて有象無象でしか無かったわよ。
……それに、あの人ほど優しい人は今まで生きてきた中でついぞ見ることはなかったわ。
ともかく、色々障害もあったけれど私たちは結婚した。
ただ、結婚したといっても変わる事はなかった。もともと家族のようなものだったから、表向きの関係が変わっただけで実際が何か変わったわけでもなかった。
だけどおじいさんは真面目だったから、なあなあで済ませるのが嫌だったらしい。結婚式の前の日、私はおじいさんに呼び出されて大分駅前にやって来た。
そのころ私たちは別府に引っ越していたから、大分駅にやってきたのは久しぶりのことだった。特に、墓地への道として時たま利用する南側ではなく、クスノキの聳える北側にやってきたのは実に五年か六年ぶりのことだった。
二人で並んで電車を降り、駅前のクスノキの前に立つとおじいさんは口を開いた。
「もう、海は見えないね」
思わず、固まった。
たしかに駅前に広がっているのは、モダンな町で、戦中のあの空襲の傷はもはや見られない。
「あの日から、八年が経つのですね」
「すっかり、街も変わった」
「はい。もうあの頃の面影はあまりありませんね……」
きっと、駅から海が見えない時間の方が長かったはず。だけど、私には何故か海が見えない事の方が異様なことのように思えた。
「時は流れ、町は移ろい、人は翻弄される……」
結局、私は流されるままにここまで来てしまった。
この八年間で多くのものを得た。だけど、いかに年を取り背丈が伸びて見える世界が変わったとしても、未だに自分の中身はあの瓦礫の中で啜り泣く無力な十二歳の少女のままであるような気がした。
「……まだ、二人であるうちにもう一度ここへ来たかった」
「え?」
突然、彼はそんな事を言った。
「結婚して、二人で一つの存在となれば私はさくらさんに全てを捧げます。でも、ひとつだけ、私の埋めることのできないあなたの心の穴がある」
彼は手を差し出した。
「行きましょう。あなたの家族の下へ」
大分駅からしばらく歩いたその先に、その空き地はあった。
「ここが……かつてさくらさんの家があった場所です」
そこへ行ったのは実に七年ぶりの事だった。
「何も……ありませんね」
周囲は宅地開発が進む、あの灰燼と帰した姿からは想像もつかないほどに整然と家々が並んでいた。けれど、かつて自分が住んでいた空間だけはその時代の波に取り残されたかのようだった。
その澱みのような空間に足を踏み入れる。どこか、ふわふわして現実感が失われていくように感じた。
「時の流れというものは……一人の人間にはどうすることもできないものなのですね」
呟いた途端、何もないはずの空間から声が聞こえた。
大正生まれのひょうきんな父のおどけた声。それに笑い声を立てる子供達。そしてそれを慈愛の思いで眺める母が漏らす笑い声。
泣きたくなるくらいに懐かしく、二度と帰ってこないあの日々が胸の中に去来する。まるで目の前に在りし日の私たち一家があるような感じた。
そして、同時に絶望が私を包み込む。
もう、その情景は帰ってこない。
そのことを私は厳然たる事実として知っていたから。
「墓地に行ってもいいですか?」
思わず、そんな事を言った。彼は何も言わずに頷いた。
墓地に着くと、私は早速手を合わせた。しばらくそうしていると、弔いの言葉の他に色んな感情が浮かんできた。
この八年間、私だけが幸せな時間を過ごしていた。母と兄弟姉妹達はあの地獄のような日の中で命を落とし、父は日本から遠く離れた島で誰にも看取られる事なく亡くなった。全員が苦しみの中で最期を迎えたというのに、私だけは命を永らえただけでなく満たされた生活を送り、明日には結婚まで控えている。こんな不条理、こんな不孝が許されるものなのだろうか。
そう思うと、こうしてお墓の前で手を合わせている事すら許されない所業のように思えた。
「私は地獄に落ちるかもしれません」
気がつけばそんなことを言っていた。息を飲む彼と自分の言葉に驚く自分自身に構うことなく、口が勝手に動く。
「この八年間、死んでいった家族のために幸せになろうと思って過ごしてきました。でも、私がどれだけ幸せになったところで、みんなが苦しんで死んでいったことには変わりはない」
私は隣に立つ彼の手を掴んだ。
「怖い……怖いんです……あの日のことを片時も忘れられないのに、それでも笑顔を浮かべている自分が。許されないのに、幸せに手を伸ばしてしまっている自分が。家族を言い訳にして自分だけ幸せになろうとしている自分が、怖い……」
私は震えた。暖かい初夏の日差しが照らす中で、身体の芯から凍りつくような気がした。
いや、このまま凍りつけたならどれほど楽だろうとさえ思った。
けれどもおじいさんはそんな私を、繋いだ温かな手を通して引き止めた。
「……ご家族への想いはきっと私には計り知れないものだろう。一人だけ生き残ったからこそ、私達の考えの届かないところでその全てをあなたはひとり背負い続けてきたのだろう。でもね、もういいんだ。さくらさんは、一人じゃない」
「一人じゃない……?」
何を言っているのだろうと思った。
私は家族を全て失った。
天涯孤独。たとえ結婚したからといってそのことは変わるはずはないのに、と……そう思った。
「さくらさん」
そんな私の胸中を知ってか否か、彼は静かに微笑んだ。
「私達はこの八年間、互いに支え合って生きてきた。あなたを私や
「あ……」
家族の墓を目の前にしてつい忘れていた事を思い出した。
わたしには今、家族がいる…………
「でも、私は何も返せていない。この八年間のご恩を、何も……」
そう言ってから、自分の言葉に愕然とする。
「私は……私は……他の人に与えられてばかりだ……」
その呟きを静かで強い言葉がかき消した。
「そんなことはない」
「え?」
「断じてそんなことはない。あなたは家族として、寸刻の間もなく幸せを運んでくれた。あなたの顔に表情が浮かぶたび、どれほど私たちが喜んだか……あなたが明るく振る舞うたび、どれだけ私たちの心が癒されたか……」
そう言って彼は私を抱き寄せた。
「人は皆、幸せになる義務がある。それはもちろんあなたにも」
「わたしにも……?」
「そう。辛いことがあったからこそ、幸せにならなければならない。そしてそれは、決して死者のためにそうなるのではない。自分自身のために幸せになるべきなのです」
「自分自身のため……」
「近しい人がどのような最期を遂げたとしても、あなたがそれをなぞることはない。あなたはあなたの人生を歩む権利がある」
「私の人生……でも、そんな……」
「さくらさん」
混乱する私に彼は呼びかけた。
「私は、あなたのそばにいる。これまでも、今この時も、そしてこれからも。ずっとさくらさんの隣にいる」
ハッとして顔を上げた。
そこには柔らかい笑顔があった。
「私はね、さくらさん。ずっと無力感を抱えていました。あの地獄のような日から今日までの八年間、あなたが様々なものを抱えながら生きてきた事に気がついていながら何もすることが出来なかった。八年間も一番そばにいたのに、私はあなたの心の中にまで踏み込むだけの勇気が持てなかった……」
知らなかった。彼がそんな事を考えてくれていたなんて知らなかった。
思わず顔を伏せる私に、彼は続けた。
「しかし、私はあなたの血族の皆さんの前で誓います。私はもう、逃げません。これまでさくらさんが一人でずっと抱え込んできたもの、それを持つあなたの腕に手を添えたい」
**
「それから、また私たちはかつての我が家の跡地へ行ったわ」
祖母はそう言って、それからぼんやりとテレビに目を這わせた。
テレビの声だけが響く部屋の中。随分と時間が経ってから、ようやく祖母は身じろぎをした。
「もう……何も見えなくなっていた」
「それは……」
「少し寂しかったわ。でも、半分ホッとしたの。きっと、最初にそこへ行った時に聞こえたものは私の中に残っていた家族の怨霊。私が私自身にかけていた呪いだった。いるはずのない家族の亡霊が纏わりつく限り、私はあの灰燼に帰した街の中で座り込んだままだった。それは、天国のように満たされた生活の中でも針の筵に座っているような、言わば『天獄』だったわ」
それから祖母は、「私の話ばかりね。ごめんなさい」と挟んだ後に呟いた。
「だけど、その天獄から引き上げてくれたのもやっぱりおじいさんだったわ。あの戦後の動乱期に私を救い、そして今度は私の苦しみを全て抱えてくれた」
「優しかったんだね」
「ええ。どこまでも深くて、大きくて、そして温かな優しさを持った人だった」
祖母を見ていれば、分かる。
その表情からは、祖父への想いと過去への追憶がハッキリと読み取れた。祖父の優しさも、それによって救われた祖母の感謝の念もハッキリと知ることができた。
けれど、それでもどこか遠い世界の出来事のように感じてしまう。
それは、祖母の体験してきたことが僕では測ることのできない程に重いものだったからだろうか。それとも、遠い遠い時代の出来事だったからだろうか。
どちらにせよ、どこか僕にはあまりにも縁遠いもののように感じてぼんやりとしか理解できない。
祖母の語った長い長い話も、はっきり言って仕舞えば昔話であって、僕の知りたい祖父の姿に迫るものではなかった。
いや、むしろ以前より祖父のことを遠く離れた存在のように感じるようになっていた。
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