欲
「『美山』はそんなお祖父様への、親友への感謝を込めて作った一杯です」
そう言って店主は目を閉じた。
「……どうりで、優しく胸の奥に広がるような飲み物な訳ですね」
従妹のそんな言葉に、店主は頷きました。
「あいつも……同じことを言って褒めてくれました……」
そう言って、彼は目を閉じた。
「初めて『美山』を口にして、斗巳也はとても満足そうな顔をしてくれました。『俺は……幸せ者だ』、と」
「そうでしたか……」
「それから、彼は私に一つの頼みごとをしました。『俺の家族の分も、作ってくれないか』、と。『桜と松子と、それから悠太、風香の分を」
「僕ですか?」
「はい。『いつか、あの子をここに連れてきて、一緒に一杯楽しみたい。だが、そこまで成長するのを俺は見ることができない。だから、河野。いつかその一杯を、裕太に飲ませてやって欲しい』。そう頼まれました」
「そうでしたか……」
「もちろん、桜さんへの一杯にも彼は沢山の注文をつけていきましたよ。あれはまさに愛でしたね」
店主の言葉に、涙腺の代わりに頬が緩んた。
「このように、斗巳也と桜さんは最後まではたから見ていてもとても仲睦まじく微笑ましいお二人でした」
「恥ずかしいものねぇ、自分の話を聞かされるということは……」
さて、これでひと段落といった様子の店主の言葉に、困ったような笑いを浮かべながら祖母は白い髪をかきあげる。
「まだ続けるつもりかしら?」
「勿論。なかなかお話しする機会もありませんからね。それにお二人は興味津々って言ったご様子ですよ?」
店主は僕と従妹を示しながらそう笑った。その言葉に釣られるように、僕たちは顔を見合わせ笑う。
「とってもいいお話でした。ね、兄さん?」
「そうだな。まだまだ話があるならぜひお聞きしたいですよ」
「まぁ、呆れた」
僕らの言葉に「全く……」とため息をつくと、それでも少し頬を緩ませながら祖母は席を立つ。
「自分の話を聞かされるなんて羞恥、もう沢山だから私はカウンターの方に行くわね」
「あ、待ってくださいよ!」
店主の引き止める声にベロを出して、そのまま祖母は叔母を引っ張っていった。
「残念。もっと照れていただこうと思ったのですが……」
そう言いながらも、全く残念そうではない店主。
「結構、Sっ気がありますね」
「何のこれしき。それに昔はよくお祖母様に一本取られることが多かったんですよ。これはそのちょっとしたお返しです」
片目をつぶってみせた店主。それを見ていると思わず笑いが零れる。
「ともかく、本当に斗巳也さんには感謝しかありません。友として、そしてこの店のオーナーとして」
僕と同じように笑顔を浮かべたまま、彼はポツリと呟く。
「そんな彼のお孫さん達に、彼の話を出来たこと……きっと私は忘れないでしょう」
しんみりとした空気になる。
暫しの間、三者三様に祖父のことを思い返した。
「……それにしても祖母の昔話は初めて聞きました」
しばらくしてから、僕はふと思いついてそう呟く。
それに対して店主も「あまりご自身のことをお話しになりたがる方ではありませんからね」と祖母の方へと視線を投げながら頷いた。
「ですが、自分では黙しているからと言って、あの方は何も為してこなかった訳ではありませんよ」
「それはもう」
僕が「分かっている」と言うようにコクコクと首を縦に振ると、店主は優しい表情を浮かべた。
「お二人は私の知る限りで、最も立派で素敵なご夫婦でした」
その言葉に、僕は何故だか胸の奥が苦しくなったような気がして言葉を継ぐことが出来なかった。
押し黙る僕。その隣で従妹が小さく身じろぎをする。
「河野さんは、おばさんとは昔からの友人でいらしたんですよね?」
従妹がそんな問いを店主に投げかけた。
それに対して店主が「はい」と頷くと従妹は顔を明るくした。
「それでしたら、おばさんと斗巳也おじさんの馴れ初めのようなものはご存知でしょうか?」
「馴れ初め……ですか?」
ふむ……と考え込む店主。その隣で僕はハッと納得をする。
なるほど、そういえば二人の馴れ初めは聞いたことが無かった。いや、思えばこの数日間祖父の事に拘ってばかりで祖母の過去に目を向けたことは無かった。
二人は夫婦。言うなれば両輪の存在だというのに、僕はずっと祖父のことばかり追い続けていた。
きっと、『祖父のことを知りたければ、祖母を知るべし。祖母を知りたければ、祖父を知るべし』なのだろう。
なんとなく直感がそうすべきだと囁いていた。
「僕も、是非お聞きしたいです」
気がつくとそう言っていた。
「二人の馴れ初め……正直、私は詳しくは知りません」
だが、僕の期待は直ぐにそうはねつけられた。
「そうですか……」
当然だ。いかに旧友と言えども、その家庭事情まで逐一知っているわけではないだろう……。
そうは思いつつも少し残念ではあった。強く知りたいと思った直後だったからだろうか、余計にそれは重く感じた。
そんな、落胆の色を隠すことのできない僕に店主は「しかし」と続けた。
「しかし、あの二人の関係については少し不思議なものだとは昔から気にはなっていました」
「不思議?」
「はい」
店主は少し目を伏せ気味にそう答えた。それはまるでどこまで話すべきなのかを計っているかのように、僕の目には映った。
「……お二人は、その、結婚する随分前から一緒に暮らしておられたのです」
「随分前というと?」
「私は物心ついた時から斗巳也さんとは遊ぶ仲でした。いつも二人で、たまには近所の子供達とも連れ立って戦争ごっこやメンコをしていました。そんなある日--丁度終戦の前後辺りからでしょうか--斗巳也さんが一人の少女を私たちの遊び場に連れてきました。暗い空気でしたから、私たちも遊び仲間が増えることはとても嬉しく感じて、すぐに打ち解けました。それから毎回のように、彼は遊びにその女の子を連れてくるようになりました」
「それが、桜おばあちゃんですか……?」
「はい」
店主は頷いた。
「しばらくして、斗巳也は遊び場にパッタリと来なくなりました。それまでリーダー格だった人間が突然いなくなるということは子供にとって大きな事です。心配になって私は家まで迎えに行きました。家に着くと驚きました。以前は立派な家が建っていたのに、この時見たのは今にも崩れ落ちそうなバラックでしたから。そしてその中には、斗巳也の兄妹と桜さんがいたんです」
「……」
「一生懸命に家の補修を行う斗巳也に遊びに来いとは言えなかった。私は『力になれることがあれば声をかけてくれ』とだけ伝えて帰りました。詳しい事情は分からなかったし、聞こうとも思いませんでした。それこそ空襲があったりして大変な時期だったので何か事情があるのだろう、と……。ただ、桜さんと斗巳也は普通の関係ではなかったとは言えます」
馴れ初めと言えるのはこれくらいだろうか、と店主は言った。
僕達はそれに対してもう何も聞こうとは思わなかった。僕も従妹もただ礼を述べて、それきりこの話には手をつけようとしなかった。この話をどう受け止めたらいいのかが分からなかった。
それからはただ雑談をした。長い話の裏ですっかり冷めてしまった飲み物も飲み干して新しいものを注文をした。程なくやってきたのは、パンケーキとブレンドコーヒー。
本当はなぜだか無性にミルクセーキが飲みたくなっていたけれど、メニューには載っていなかった。
「どう? 色々聞けた?」
突然、しんみりとした空気を元気な声が切り裂いた。
ハッと顔を上げると、そこには祖母と叔母が並んで立っていた。
「色々聞けたんじゃないかしら?」
「まあね」
「まっちゃん、そんなノリノリで聞く事でもないでしょ?」
叔母のノリノリな様子に呆れる祖母。
「そんなに話す内容もなかったと思うわよ」
「ううん、イイ話を聞かせて貰えたよ」
従妹はそう返した。そこへちょうど店主が祖母達の飲み干したコップを回収しに来た。
「またいつか、機会があれば今度はおばあちゃんの話とかも聴きたいなと思ったよ」
従妹の言葉に店主はただ頭を下げて店の奥へと帰っていった。
それからしばらく僕たち四人で店主の話を振り返り、三十分程経ってから退店の運びとなった。
僕たちが声をかけると店主はお代は結構と言ってくれた。だが、貴重な話を聞かせてもらった御礼も兼ねて支払いを受け取って欲しいと言うと、若干の押し問答の末に店主が折れた。
「お代を出すのなら私が……」
「いいや、良いですよ。これは僕からの感謝の分なので。おばあちゃん達は先に外で待っていてください」
「そう? じゃあ、任せたわね」
「はい」
僕が財布を出す間に、先に祖母たちには店の外に出てもらった。
会計を済ませると、僕は改まって店主を振り返った。
「今日はご馳走様でした。美味しい飲み物に貴重な話まで本当に楽しませていただきました」
「いえ、お口にあったようで良かったです。お祖父様、お祖母様のお話もすることができて、私の方こそ楽しませて頂きました」
笑顔の店主。けれど、僕は今回の話の他にも聞きたいことが残っていた。
「あの、最後にひとつだけお聞きしたいのですが……少しよろしいですか?」
「はい? どうしましたか?」
「先日、大川さんという方に出会いました。その方が言っていたんです。祖父は誰よりも強欲だった、と」
それは昨日のこと。
大川から聞かされた話に、僕は僕なりの答えを見つけたいと思った。
「ですが、祖母や河野さんのお話を伺うほどに、祖父が強欲な人間であったようには思えなくなっていくのです」
「強欲……ですか?」
そう言って主人は首を傾げた。
「それに、大川さんが仰った?」
「はい」
「そんな……」
店主は顎に手をあてて暫し考え込むようにした。
「何か、思い当たるような節はありませんか? 祖父が『強欲』と言われた、その訳について」
暫しの沈黙に耐え切れずに思わずそう問いかけると、店主はゆっくりと顎から手を離した。
「……大川さんには、この店を建てる時にお世話になりました。それも斗巳也さんの紹介で、です。私はお二人の仲を詳しく知る訳ではありません。ですが、側から見ていて格別仲が良かったとまでは言いませんが、少なくとも険悪な雰囲気があったわけでもないと思いますよ」
「それなら、何故……」
「さぁ……。わたしには、大川さんの心情については計りかねます……」
勢い込む僕に、店主は諭すようにそう言った。
たしかに、仲が良いわけでもない人の考えなどわかるはずもないだろう。店主の言葉に、僕は息急きって前のめりになったことを少し恥じる。
そんな僕に、店主は静かに語りかける。
「ですが、斗巳也さんを『強欲』とするその気持ちはなんとなく理解できます」
「え……?」
ハッと顔を上げると、店主は少し複雑そうな表情を浮かべていた。
「斗巳也さんは誰よりも幸せを求める人でした。自分や家族の幸せはもちろん、目に入る人全てが幸せにならなければ満足しない……そんな人だったと思います。戦後の動乱の時代では自分ただ一人ですら幸せになることも難しいのに、目に入る全ての人の幸せまで願うなど強欲と言ってもいいでしょう……」
そう言うと店主は天井を仰いだ。
「わたしには出来ない。困っている人のために我が身を捨てることなど……。差し伸べた手を相手が握らなければ、握るように仕向けてまで助けようとするなど……まるでお釈迦様の前世の薩埵王子のようではないですか」
「そんなことを……」
「彼は、そんな風に生きました。わたしには到底出来ない生き方です」
最後の呟きに込められた感情を、僕は読み取ることができなかった。
ただ、どこまでも深い声色で、何故か背筋が凍って鳥肌が立った。
「そ、祖父がそんな生き方を出来たということは、彼は何か特別な人間だったのでしょうか」
震えを抑えるように強く右腕を左手で握りしめつつそう問いかけると、店主は首を振った。
「いや……。斗巳也さんは、特別な人ではなかった。国を動かした人でもなかったし、零戦の凄腕パイロットだった訳でもない。どこにでもいるふつうの市民で、普通の夫で、そして普通の友だった」
僕の言葉に答えながらも店主は--河野は遠くを見つめるような目をした。彼は目の前の僕ではなく、その視線の彼方にいる何者かに語りかけるようなして言葉を紡ぐ。
「それでもただ一つ、常人と異なるところがあるとすれば……」
「なんです?」
「優しさでしょうか」
「優しさ……」
「斗巳也は誰よりも優しい人でした。誰よりも深い優しさをその細身の体の中一杯に抱えていた。きっとその溢れんばかりの優しさこそが、大川さんの仰る『強欲』の正体だったのではないかと思います」
--優しすぎることが強欲。
それは、僕にはあまりピンとこない論理だった。
「…………よく、わかりません」
それに、疑問も増えた。
祖母の話では祖父は僕に対しての接し方に迷い、遠慮しながら死んでいったらしい。でも、話に聞く祖父はむしろコミュニケーション能力の塊で、人の心にまで踏み込むような人間だ。
まるで同一人物とは思えない。
「分からない……」
ぼんやりと、ただ僕はそう呟く。
一瞬の沈黙。
それから黙り込んだ僕に、河野が口を開いた。
「……ただね、私は彼が単に優しいだけの人間だったとは思えないのです」
「え?」
「彼の優しさには、どこか危うさがあった。その危うさが何なのか、私には最後までわかりませんでしたが……」
「危うさですか?」
「はい。そして、きっとその明瞭ではないけれども確かに感じられる危うさこそが、彼の優しさを狂言らしくたらしめていたのではないでしょうか」
「狂言……」
店主の言葉を鸚鵡返しにした僕に、彼は慌てて手を振った。
「いえ、決して彼の優しさが偽物と言いたいわけではありません。ですが、どこかその行いに相手のためでは無いような所があるように感じられた。本人の本心がどうであろうと、そのことが斗巳也に対する大川さんの不信感に繋がっているのではないでしょうか」
彼は、再び遠い所を見るような目になってそう言った。
「溢れんばかりの優しさの全てが、無条件に相手のためだけのものであるはずがない。それは当然のことです。でも彼の優しさはあまりにも自己犠牲のすぎるところが見受けられた」
「そんな……」
「それに、斗巳也は頑として手を貸したものからの恩返しを受けようとしなかった。私達は彼にお返しをすることすら許してもらえない……そんな相手のこと、いつまでも信じていられるでしょうか。いつかどんでん返しが、借金分の取り立てがあるんじゃないかと。自分は騙されているのではないかと……きっと、大川さんがキツイ物言いで彼のことを語った背景にはそんな思いがあったのではないでしょうか」
店主が語り合えると同時に、背中の方でギィと軋むような音が鳴った。振り返ると、そこには従妹がいた。
「兄さん、まだかかりそう? おばあちゃん達が待ってるよ」
「あ、ああ……」
ぼんやりとしたまま、僕は頷いて店主に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
そう言ってから、店主は僕の肩を軽く叩いた。
「最後に、少しだけ厳しいことも言いましたが、それでも私が彼を大切に思っていたということは間違いありません。そして、彼がなした事に関しても否定する気などは毛頭ありません。彼のしたことはまさにヒーローだった」
「……はい」
「そしてもう一つだけ。私にとって斗巳也さんは本当に良い友人でした。そんな彼の親友としての頼みがあります」
「なんでしょうか」
「あなたなりに斗巳也をどう捉えたのか。いつかそれを教えて下さい。私では追いきれなかった彼の想いを、彼の悩みを、そして彼の生き様を、教えてください」
店主はそう頭を下げた。
**
ギィと音を立てて閉まる木製の扉を後にする。
朝から降り続いていた雨はいつしかあがっていた。
「斗巳也おじいちゃんとさくらおばちゃんに、まさかあんなお話があったなんてね」
「驚いたな」
明るいテンションの侑芽に笑いながら、僕は別れ際の店主の言葉を振り返る。
--あなたなりに斗巳也をどう捉えたのか。いつかそれを教えて下さい。
書きたい。
そう思った。
僕の見失っていた祖父の姿、僕の知らなかった祖父の姿、そしてその生き様を小説にしたいと思った。
この数年間見失っていた人生の目標を、迷っていた未来を見つけたような気がした。
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