尾田斗巳也
「君の祖父……
目の前の老人の口から最初に飛び出したのは、そんな一言だった。
「裕福な家の生まれで女々しい金持ちの道楽息子……俺の最も嫌いな人種だった」
そう言って彼は地面に並べてあるガラクタの中から電動ノコギリと釘の入った木箱を取り上げた。
「俺の職業は鳶職。こういったものは俺にしてみれば命の次に大切な商売道具だった」
「鳶職……」
「だが、そんな道具も、あいつにはただのおもちゃだったんだろうよ。あいつは休みの時にはこいつらをおもちゃにして遊んでやがった。例えばこんな小屋を建てたりな」
納屋を指差してそう吐き捨てると、彼はそれらを無造作に地面の上に置いてその場に座り込んだ。
慌てて近くにある椅子を勧めたが、「こっちの方が落ち着く」と言って動かなかったので、そのまま僕もその正面に正座した。
「昔からあいつはそうだった。だから俺はあいつが気に食わなかったんだ……」
彼は遠くを見るような目をしてから、ポツポツと語り始めた。
**
俺が、あいつと初めて会ったのは昭和二十年の夏が終わるかどうかという頃だった。
俺はもともと、大阪生まれの大阪育ちだ。
君は昔の大阪を知ってるか? 昔の大阪ってのはな、日本で一番の都市だった。「
だが、終戦の一、二年ほど前に家庭の事情から俺は福岡に引越しした。大阪から離れるのは嫌だったが一時的なものだと聞いていたから、そのうちまた大阪に戻れると思っていた。だが、引っ越してすぐに戦局が目に見えて悪化し始めると、福岡にも空襲の危険があるということで俺たちガキは福岡からさらに田舎に疎開させられることになった。
--「疎開」って分かるか? 疎開っていうのは、要は「避難する」ってことだ。
大都市が攻撃された時に、子供のような社会的弱者がいたら邪魔でしかない。そういった厄介払いをするための体の良い言葉さ。
その中でも、俺が経験したのは「学童疎開」ってやつだ。「学童」っていうのは尋常小学校--今の小学校だな--の児童のことだ。労働力にもならんガキどもを都市部から田舎に追い出したんだな。
ともかくこうして俺は福岡から大阪に戻るどころか、さらにど田舎の身寄りも何もない見知らぬ街、大分にやってきたんだ。
孤独だったよ。一緒に疎開した学校のやつらも知り合ったばかりで特別仲が良かったわけでもない。本当に独りぼっちだった。早く大阪に帰りたいと、いつも枕を濡らしていた。
周りの奴らも、親元を離れての生活は寂しかったらしい。だが、奴らには友がいた。俺には友達はいなかった。中途半端な時期に転校してきた俺は、奴らにとっての異分子だった。異質な俺は、次第に奴らの寂しさの捌け口にされたよ。今でいえば「いじめ」だな。そしてそれを教師どもも黙認した。
どこにも居場所のない俺は、いつしか自分のことを他の奴らとは違う人間だと思うようになった。俺に笑いながら手を上げる奴やそれを囃し立てる取り巻きどものような田舎者どもとは違う、大都会の生まれ理知的な存在だと思うようになった。殴られながらも相手を見下していた。
そんな日々を送りつつ、しばらく経った昭和二十年の初夏、疎開先に一本の連絡があった。
福岡が、空襲にあったという内容だった。
だが、俺はそれを話半分に聞き流していた。なぜなら俺は自分の街は大阪だと思っていたから。たとえ福岡が壊滅したところでなんということはない、自分の故郷は残っていると思っていた。大阪も空襲の被害を受けたことは聞いていたが、あの大都市が無くなることなんて想像もできなかった。
またそれからしばらくして、八月になった頃、さらに新たな情報が三つ入ってきた。
一つは、福岡に残った俺の家族からのもので、先の大阪大空襲によって大阪が壊滅したということだった。親族の大半が住んでいた
二つ目はそれに関連して、行方知れずの祖母たちを探すために両親は大阪へ行くということ。なんとか列車の切符を確保して八月の頭には福岡を発つというものだった。
そして、三つ目はその両親の死。広島で宿を取っていた所、新型爆弾にやられたとの事だった。
目の前が真っ暗になるような気がした。不思議なものでな、帰りたいと思っていた頃は毎夜のように涙が溢れていたのに、いざ帰る場所も人も無くなったと思うと途端に涙が出なくなった。
大阪は焼かれ、親族は死に絶え、そして両親も失った。心の支えもなにもかもが、全てを消え去ってしまった。
--きっと、君のように平和な時代を生きてきた若者には分かるまいが、子供というのは辛く苦しい時ほど、強がったり虚勢をはったりするものだ。俺は都会人だという自意識を心の柱にし、田舎の奴らとは違うと思うことで孤独感から目を背けていた。だけど、そんな心の中にあって自分を支えてくれていた物を全てが失った時、後にはなにも、残らない。ただ、ぽっかりと胸のところに穴が開いたような感覚だけが残るんだ。
……この時の俺はまさにそんな感じだった。
何も感じることができず、ただ立ち尽くすしか出来なかった。
それから数日経って、戦争は終わった。
暑い真夏の昼間に近所の神社に集められてな、ラジオを聞かされたんだ。最初は何言っているか、てんで分からなかった。きっと引率の先生も、疎開先のおっさんとおばさんも分からなかったんじゃないだろうか。雑音ばかりで何も伝わってこなかった。みんなポカンとしていたよ。
結局戦争が終わったことを知ったのはその日の夕方、ラジオで概要が報道されてからだった。
しばらくして、俺たちは親元に帰ることになった。周りの奴らはみな、泣いて喜んでいた。やっと家に帰れる、やっと家族に会えるってな。
けれど、俺にはもう帰るべき場所はなかった。帰るべき故郷は瓦礫へ変わり、家族は皆死んでしまった。
もはや俺の帰る場所はなかった。
戦争が終わった次の満月の夜。
俺は疎開先を抜け出した。ただ福岡にも大阪にも戻りたくなくて、とはいえいつまでも疎開先にいるわけにもいかなかったから。ただ、行くあてもなく月明かりに照らされた明るい夜道を駆けた。
何度転んだかは分からない。だが、それでも足を止めずに駆けて駆けて駆けて……気がついた時には大分駅の駅舎の中で寝ていた。
それから、俺は浮浪者として生きるようになった。盗みはもちろん、残飯漁りとか畑荒しとか、生きるためにはなんでもした。それはただ孤独で寒くて、真っ暗な毎日だった。
その頃の大分はすっかり焦土と化していて、物は何もなかった。普段は捨てるようなものも、みんな何かに使われていたから新参者の俺が拾えるようなものは何もなかったんだ。だから、仲間も生きていく知恵もなかった俺にとって、浮浪者生活は苦しいものだった。二月もたたないうちに体はやせ細り、心はガリガリと削られていった。
やがてそのうち、俺は立ち上がることもままならず、地面に寝転んだまま過ごす時間が長くなった。死が近づいていることは分かっていたが、それも家族に会えると思えば悪いことには思えなかった。
そんな時、あいつに出会った。
「君。君、おい!」
いつものように駅前の場面に寝転がって遠い日の夢を見ていた俺は、そんな声に目を開けた。
そこにはひとりの男と、そばには俺と同じくらいの歳の少女が立っていた。
「なんだ……? 立ち退き要求か?」
「僕たちにそんな権限はないですよ。」
男はそう言って笑うと「君、名前は?」と問いかけてきた。
「
「与太郎君。僕は
膝をつき、奴は俺と目線を合わせて手を差し出してきた。
「一昨日からずっとここにいるでしょう?」
「な……」
驚いた。
今まで、俺に声をかける者など誰一人として無かった。ただ床に転がったままの俺のそばを、人々は皆見ぬふりをして足早に去っていくだけだった。誰の目にも俺の姿は映っていないと思っていたから、二日も前から気にかけてくれていた人がいることに驚いた。
「お腹、空いてるでしょう。これを食べてください」
固まったままの俺に、男はすいとんを差し出してきた。
--「すいとん」って分かるか? 米の代わりに小麦粉をコネた団子を入れた雑炊みたいなものだ。なかなか旨くて昔からよく食われていたものだが、この時食べたのはお世辞にも美味いとは言えなかったな。小麦粉ではない謎の味がしたし、団子には火が通っていなくてボソボソでべちゃべちゃ、ハッキリ言って酷いものだった。
だが、その味はよく今でも覚えている。
「……身寄りは、ないのですか?」
俺にとっては数日ぶりのマトモな食事。必死で掻き込む俺に、斗巳也はそう問いかけた。
首を横に振ると、「そうですか……」とうつむき、暫く考えてから男は「それでは」と口を開いた。
「しばらく、我が家へ来ませんか?」
驚いた。
本当に心から驚いた。
その頃といえば、誰もが自分の生活で精一杯な時代。そんな時にどこの馬の骨とも知れない育ち盛りのガキを拾おうなんて考える奴がいるとは思っていなかった。
呆気にとられる俺に、奴はにっこりと微笑んだ。
「この街は焼かれてしまった。だけど、これからはきっとその復興が始まります。そうなれば自然、働き手が必要となってじきに働き口も見つかるでしょう。それまで僕が……僕たちがうちで面倒を見ます」
嘘のようにいい話だった。あまりにも良い話だったから、ペテンか何かかと思うほどだった。どうにも判断がつかなくて、ただぼんやりとしていると不意に男の隣から小さく伸ばされた手があった。
「一緒に、ご飯を食べませんか?」
奴のそばにいた少女が始めてその口を開いた。
その声を聞いた途端、俺は固まってしまったよ。その声は、まるで俺の母親の声にそっくりだったんだ。
もちろん声は幼かった。けれど、そういう表層ではなくて、もっと深いところで母と同じものを感じたんだよ。
気がつけば、俺はその小さな手を握りしめていた。それだけじゃない。両親が死んだと知ったあの日から一度も溢れることのなかったものが、一気に胸の奥からせり上がってきた。
何も言わず手を取り、ただぼろぼろと涙を流す俺に少女は戸惑ったらしい。だけど一瞬の後、彼女は汚物のように汚れた俺の身体を抱きしめてくれた。
その優しさに、俺はただ涙を流すことしかできなかった。
それから俺は、しばらく斗巳也の家に居候させてもらうことになった。奴の家も戦中に罹災したようでほぼ崩れかけているようなボロ屋だったが、それでもなかなか金持ちのようで食に事欠くことはなかった。
俺はしばらくその家に滞在していたわけだが、その間もあいつは何度も俺のような浮浪児を探しては子猫のように連れて帰ってきていた。多い時で10人はいただろうか。そしてそれを奴の両親も何も言わずに受け入れていた。
不思議な家族だと思った。俺たちのような社会のはぐれ者を養うくらいなら自分の家くらい建て直せと何度も思った。だが、あの家族は決してそんなことはしなかった。
年が明け、だんだんと暖かくなり始めたころ、斗巳也が働き口を斡旋してくれて俺は家を出ることになった。
その頃は、まだ俺も奴に感謝の念を抱いていた。むしろ、心酔していたさ。いつか、金持ちになって恩を返したいと思うほどにな。
だが、奴の紹介した働き口は俺には合わなかった。
最初こそは上手くいっていた。だが、次第に雇い主は俺のことを疎ましく思い始めた。俺とは馬がどうしても合わなかったんだ。次第にギクシャクとし始めて、俺は少しずつ職場での居場所を失っていった。
そんな時、事件が起きた。
よくある話だ。職場の中で窃盗が起きてな、犯人は誰だという話になった。当然、雇い主は幾人もいる働き手の中で俺を疑ったよ。
誓って俺はそんな事はしないさ。俺は斗巳也達に救われたあの日、生まれ変わったんだ。真っ当に生きていこうと心に決めていた。なのに、主人は俺のことを元浮浪児としてしか見なかった。結局疑いは晴れることなく、俺は斗巳也の家に送り返されることになった。
斗巳也は親と連れ立ってきた。厳しい顔をした奴は、主人と話をしてから俺のところにやってきた。
奴の顔は曇っていてた。あぁ、こいつも俺を信じていないんだなと思った。
「与太郎。本当にやったのか?」
何度も聞いた、俺を疑うような文言。度重なる厳しい詰問の中で、何度その言葉に頷こうと思ったか。
だが、斗巳也の声音はそれまでの主人のそれとは全く異なる不思議な響きだった。
「……やってない。俺の親に誓う」
奴は一言、「そうか」と頷いて、それから俺の頭を軽く叩いた。
「わかった。あとは任せろ」
「なっ……」
信じてもらえるとは思っていなくて、俺は呆然とした。
固まったままの俺に、奴は続けたよ。
「もう大丈夫。後は僕たち大人に任せてほしい」
正直、「はぁ?」と思った。
当然だろう。この半年、針の筵のような環境で過ごしてきて、ついにはろくに証拠もない中で大人に盗人と決めつけられたのだから。
……いや、それだけじゃない。
もっと前から。疎開していた頃に俺への「いじめ」を黙認していた教師や、俺を疎開先に放り出したまま勝手に死んだ両親……。大人はいつも俺のことなど考えずに勝手に行動して、そして毎度のようにその皺寄せは俺にくる。
そんな大人達に、何を任せられるだろうか。
「俺は、もう大人なんて信じない」
「……」
「……どうせ大人はガキのことなんか二の次で、自分のためだけに動くんだろ? だったら俺は……」
「『俺は誰にも頼らずに生きていく』……。そんなことを言うつもりかい?」
俺の静かな怒りを遮り、あいつはそう返した。思わず固まると、奴は焦ったように「いや、違う」と手を振った。
「与太郎を責めてるわけではないんだ。君はよく耐えたと思っているさ」
「……」
「責められるべきは君ではない。大人たちだ」
そういうと、奴は俺の前で汚れた地面に膝をつき、俺にも座れと床を指し示した。
「子供を支え、そのやりたいことを支える。大人とはそうあるべきだと思う。なのに、どうやら君の主張は撥ね付けられてきたらしい」
「……俺の言葉に耳を傾ける大人など今までいなかった。大人は子供の発する言葉なんか聞かない生き物なんだ」
小学生の頃に助けてくれなかった教師や駅で寝泊まりしていた頃の汚物を見るような目を向けてきた通行人、そして少し気が合わないからと証拠もなく盗人扱いする主人。
思い出すほどに不信感が募る。
「違う。本当なら、大人が手を差し伸べるべき存在なんだ……大人はいつでも子供と共にあって、信頼と安心を与える存在であるべきなんだ」
そう言うと奴は膝を折り、俺と目の高さを合わせた。
「そうあるべきなのに……君は今までそんな大人に会えなかったらしい……そして、僕も今日、その大人の仲間入りをしてしまった。君に仕事を斡旋して、それでひと段落と思ってそのまま放り出してしまったんだ。本当にすまなかったと思っているよ」
こうべを垂れる斗巳也。
そのまま沈黙がしばらく続いてから、おもむろに奴は口を開いた。
「……そんな中で君はよく頑張ってきた。だから、もう大丈夫だ。これからは僕に任せてほしい」
「……大人はもう信じられない」
「だろうね……でも、もう一度だけでいい。僕に、大人に挽回の機会をくれないか?」
奴は、「もう一度だけでいい。絶対に失敗は繰り返さない」と言った。
俺は正直気に食わなかった。
そもそも、この時の斗巳也はまだ十代の中頃。俺とそれほど年も変わらないくせに、何が「大人」だとも思った。
だが、奴は約束を守ったよ。
どこにそんなツテがあったのか、福利厚生のしっかりとした建築系の仕事を紹介してもらえた。以来、ずっと定年までそこで俺は世話になった。
その間奴は度々俺の所にやってきた。
何度も何度も、ただ俺の保護者のような顔をして様子を見にやってきたよ。
そして、それは奴の家が没落しても変わることはなかったんだ。
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