家平らかに……。
「おじいさんの話、ね……さて、どこから話しましょうか」
飲んでいたミルクセーキを机に置いて、祖母は視線を宙に泳がせる。
--祖父のことを教えてほしい。
いきなり僕がそんなことを言い出したことに戸惑っているのかもしれない。
「おじいさんが亡くなった時、悠くんは小学五年生だったかしら」
祖母の言葉に小さく頷く。
「はい」
「悠くんが小学五年生、そして風香ちゃんは生まれて間もない頃、ね……」
そう言って祖母は目を伏せた。
「そうね、あの人は最期の頃になるといつも孫たちの事ばかり話していたわ……」
「僕たちの、事ですか?」
「そう。おじいさんは昔から子供が好きでね、特に風香ちゃんが生まれた時はとても喜んでいた。『死ぬ前の天からの贈り物だ。一目でも会えるなんて思ってもいなかった』ってね。余命から逆算して会えないかもと思っていたらしいの」
「そうだったんですか……」
「もちろん悠くんのことも話していたわ。……いえ、むしろ一番悠くんの事を心配していた」
「え?」
予想外の言葉に、思わず背筋がビクッと伸びた。
「僕、ですか?」
「そう。悠くんのこと、一番可愛がっていたから」
「そう……ですか」
「初めての孫だったからなのか……いえ、それ以上に悠くんが可愛くて仕方なかったからでしょうね」
思わず奥歯を強く噛む。それでも吐き出したいくらいに深い悲しみがシミのようにじわじわと心の中に広がるのを止めることはできない。
「……おじいちゃん、昔から優しかったんですか?」
「そうね、とても優しかったわ」
優しい声が降りかかる。
顔を上げると、優しい微笑みがそこにあった。
「じゃあ、ゆっくりおじいさんのことを振り返りましょうか」
**
平成の最初の年に生まれた悠くんは私たち夫婦にとって初めての孫だった。
それまでの昭和という時代はね、まさに激動の時代だったの。昭和の初めには戦争、中頃には復興と経済戦争、そして終わりの頃には第三次世界大戦が起きるのでは無いかと思うほどの世界全体の動乱。悠くんも教科書の中の話としては知っているかもしれないけれど、本当に大変な時代だった。そんな波のうねる大海原のような時代にあっては、私たちの生活なんて塩水に揉まれる小枝のようなものだったわ。
だから、新しい時代になって最初に生まれて来てくれたあなたには穏やかでゆったりと生きて欲しいとおじいさんは言っていた。そんな願いを込めてあなたに付けたのが、『悠太』という名前なの。
そうやって生まれてきた悠くんに、おじいさんはメロメロだったわ。自分の子供の時も他の家庭に比べたら子育てに参加してくれる人ではあったけれど、孫の時には比べ物にならないほど積極的だった。
その二年後、おじいさんの妹……悠くんの大叔母の松さんにもお孫さん--
二人の望むものなら何でも、望むところへなら何処までも連れて行ってあげていた。
特に二人が好きだったのは宇佐市にあるアフリカンサファリ。悠くんも侑芽ちゃんも小さい頃からあそこが大好きだったでしょ。おじいさんに連れられて毎週のようにアフリカンサファリに行っては、楽しんでいた。
悠くんも侑芽ちゃんも、おじいさんにとてもよく懐いていた。いつも「じっちゃ、じっちゃ」と言ってべったりで、私も思わず嫉妬してしまうほどだった。
それが変わったのは悠くんが小学生に上がった頃、とある事件が起きてからだった。
その日は冬の寒い日でね、居間には炬燵、台所には石油ストーブを焚いていたの。炬燵の中には悠くん、侑芽ちゃん、おじいさんと侑芽ちゃんのお祖父さんが入っていて、私と侑芽ちゃんのお祖母さんは台所で夕飯の支度をしていたわ。
「おじいちゃん、喉かわいた」
「そうか、何か飲むか?」
「お茶! あったかいの!」
「よし分かった。侑芽ちゃんは?」
「ぎゅうにゅうがほしいです」
「よしきた。じゃあ、ちょっと待ってなさい」
おじいさんは炬燵から出て台所にやってきた。
「おじいさん、悠ちゃんはもう小学生なんですから自分でやらせたらよろしいのに」
「いやいや、これくらいな。それにストーブをつけている所の近くに来させたく無い」
「それもそうですけど……」
「まあまあ、いいじゃないか」
あははと笑いながらおじいさんは牛乳をレンジにかけ、ストーブの上で沸いたばかりのお茶を注いだ。そのままお盆の上に二人の好きだった甘いお饅頭を置き、その隣に二つのコップを乗せた。
「おじいさん、ご飯も近いんですからあまり食べさせないでくださいね」
「はいはい、分かってますよー。ちょっと熱いかな。氷っと……」
おじいさんは冷蔵庫の方へ向いた。私も晩御飯の支度で全く周りを注意していなかった。
「おじいちゃん、これ持っていっていい?」
その声にハッと振り返ると、悠くんが熱いままの飲み物の載ったお盆を持っていた。すぐそばには石油ストーブ。周りを見ていない悠くんはストーブに当たりそうになった。
「危ない!」
おじいさんは間一髪でお盆を悠くんから取り返し、私はあなたをストーブから遠ざけたわ。
「危ないだろ! 気をつけなさい」
私も焦ったけれど、おじいさんはその何倍もびっくりしていたらしい。すぐにキツイ言い方で悠くんを叱りつけた。
今まで孫に対してそんな言い方をすることのなかった人だから、私も、そして悠くんもびっくりした。それだけびっくりしていたんでしょうね。
「うっ……うぅ……ごめんなさい……」
泣き出した悠くんを私は抱きしめたわ。
「おじいちゃんはね、あなたが怪我したんじゃないかって心配で大きい声を出しちゃっただけ。わかるわね? 大丈夫、大丈夫よ」
諭して、それから私はよしよしとあなたの頭を撫で続けた。しばらくしてから悠くんは泣き止んだけれど、それからは少しおじいさんの事を怖がるようになってしまったわ。
今思うと、これは失敗だったと思う。泣いている悠くんを抱きしめるのは私ではなくておじいさんのなすべき役割だった。あそこで私が抱きしめてしまったから、おじいさんは叱ったまま、フォローをする事もできなかったんじゃ無いかと思う。
ひょっとするとおじいさんから悠くんを奪ってしまったのは私だったのかもしれないと思うと、私はあの日を忘れることはできない。
--話が逸れたわね、ごめんなさい。
その夜、みんなが帰ってから寝床に入ると、先に布団に入っていたおじいさんが「おばあさんよ……」と声をかけてきた。
「今日は、強く言いすぎたかな……」
「大丈夫だと思いますよ。あの子もおじいさんの優しさはよく知っていますから嫌いになるようなことは……」
「俺が嫌われる事など大したことではない」
向こうを向いて、表情を私に見せないままおじいさんは呟いた。
「あんな言い方をしてしまって悠太が傷ついていないかが心配なんだ……」
ハッとしたわ。
そうだった、この人は自分のことより他人のことを考える人だった、と思い出した。
「きっと大丈夫ですよ」
「だといいが……
それきり、おじいさんは何も言わなくなった。
最初はおじいさんが過剰に心配しているだけだろうと思っていた。
だけど、それから少しずつおじいさんと悠くんの間には距離ができ始めた。お互いにお互いの表情を疑って、それが余計にややこしくした。
いつも、おじいさんは寂しそうにしていたわ。もっと、悠くんに会いたいと言っていた。でも、悠くんをこれ以上怖がらせたくないって言ってあまり積極的には近づくことは控えるようになってしまった。ひょっとすると距離感を掴みかねていたのか……今となってはもう分からないわ。
でも、逆にそのことがあなた達二人の間を遠ざけることになっていたのは確かだと思うわ。
でもね、おじいさんは正面切って向き合うことができなくなってからも悠くんのことを大切に思っていたのよ。
悠くんがサッカーを始めた時には、新しいボールとシューズをこっそり買って悠くんのお父さんに渡していた。運動会の時には「俺は行かない」と言い続けた末に、「やっぱり行きたい」と当日の朝に言ったりしたこともあった。
おじいさんはね、優しすぎた。優しすぎて、素直になれなかったの。
だからでしょうね、二人の間のズレは治るどころかますます深くなっていった。
いつしか、おじいさんはひとりぼっちになっていた。
侑芽ちゃんや侑芽ちゃんのお祖父さんがいない時はただ一人、小さな背中がテレビに向かってポツンと寂しげに丸まっていることが多くなった。
それまではいつも炬燵に入っていた悠くんが気がつけば居間へ足を向けることが少なくなり、代わりに台所で過ごす時間が長くなった。
それでも、おじいさんは悠くんがうちに来た日の晩はいつもあなたの話ばかりをしていたわ。
「今日はおばあさんの料理姿を見ていた。料理に興味があるらしい。教え込んだら将来は台所に立つ男になるかも知れないな」「今日は運動していた。センスはないかもしれんがガッツはある」「今日はおばあさんに自作の物語を話していたな。チラと聞いたがなかなかこれは筋が良い」……。
今日は、今日は……とおじいさんはいつも悠くんの話ばかりだった。
だけど、そんな想いがありながらも二人の間の隙間は二度と再び埋まることのないまま、ついにあの日が来てしまった。
悠くんが小学四年生になる直前の冬のとある寒い日。おじいさんは突然倒れた。
救急車で搬送され一命はとりとめたけれど、入院する事になって……それからは転がり落ちるように体調が悪化していった。
ちょうどその頃、悠くんのお母さんは二人目の命をお腹に宿していた。だけど、おじいさんはその子が生まれるまで生きていられるか微妙なところだってお医者様に宣告されたの。
おじいさんはいつも言っていたわ。一目でもいいから、その子にも会いたい、と。
その願いを神様は聞き届けてくれたのかもしれない。あなたの妹の風香ちゃんはおじいさんが生きているうちに、この世に生まれてきてくれた。
おじいさん、とっても喜んでいたわ。
風香ちゃんを抱きながら、「名前までつけさせてもらって、もう思い残す事はほとんどない」と言っていた。
それでも、「悠太と昔のように話せないまま終わる事だけが心残りだけど……」とも言っていた。
それから一年後。
おじいさんは亡くなった。
最期まで家族のことを、特に悠くんの事を気にかけていた。
「大きくなった悠太と、酒を酌み交わしたかった」
それがおじいさんの最期の言葉だった。
**
「ここまでが、悠くんとおじいさんのお話よ」
その言葉に、僕は何も答えることが出来ない。
もうどうやっても取り返しのつかない二十年前の出来事に、ただ遣る瀬無さを感じるだけ。
泣きたいくらいに胸の奥が痛くて、そこからせり上がってくる言いようのない大きなものがあるのに、何かがそれを塞き止める。
悲しみはない。だけど、言いようのない追慕の念に僕はただ身震いをした。
「……だからね、いつも嬉しく思っていたのよ」
「え?」
思わず聞き返す。
思わず首を傾げると、祖母は目尻を下げた。
「いつも、悠くんは御仏壇に手を合わせてくれるでしょ。おじいさんの最期を思い返すと、そのことがとても嬉しく感じられるのよ」
「そんな……僕はただ……」
僕はただ、習慣としてしているだけだ。それなのにそのことで祖母は喜んでくれている。
……言葉が出なかった。
「きっとおじいさん、立派になった悠くんを見たら喜ぶでしょうね……」
「……」
僕は祖父のことは怖い存在だと思っていた。いつも見ていた寡黙な背中は僕を拒絶していると思っていた。そう思ったまま、祖父が亡くなってからの二十年間を過ごしてきた。
その長い年月に対する後悔は、僕の胸の奥にシコリとなって主張している。
でも、祖父は確かに僕のことを愛してくれていた。そのことを知った今、少し後悔とは少し違う思いもまた、胸の中に湧き起こっていた。
--僕は祖父のことを知らないんだ……。
それは決して祖父との関わりを否定する思いではない。むしろその逆。
知らないからこそ、もっと知りたい。
祖父が何を思い、どんな人生を歩んできて、そしてどんな風に僕らを見ていたのかを知りたいと思った。
「ありがとうね」
突然そんな言葉が聞こえてきた。
「ありがとう、おじいさんのことを聞いてくれて」
微笑む祖母。その目の端からは一筋光るものが零れていた。その雫にどんな想いが秘められているのかは、今の僕には推し量ることも出来ない。
けれど、それでも僕は、祖父のことをもっと知りたいと思った。
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