古本屋の猫

禎波ハヅキ(KZE)

古本屋の猫

 僕が大学に入ってまず驚いたのは、教科書があまりにも大量で、しかも高いということだった。大学の講義はほとんどが週に1回しかないのに、その全てで違う教科書が必要になる。同じ教科が週に何度もあって、同じ教科書を使っていられる高校とは大違いだ。

 全部買ったら一体いくらになるのか。その金額を計算して、僕は同時にご飯代へと想いを馳せた。そして出た答えは、古本屋へ向かう、というものだった。大学の近くの古本屋なら、きっと先輩方のいらなくなった教科書が置いてあるのに違いない、そう思ったからだ。

 そして僕はまだ慣れない大学の周りを歩き回って、裏手に小さな古本屋を見つけた。通りから見える奥のレジカウンターでは、おばさんが静かに本を読んでいる。薄暗い店内に入ると、僕が期待していた通り教科書が何冊も置いてあった。

 値段を確かめるために本を手に取りラベルを見たが、僕は驚いた。定価よりも高いのだ。これは何かの間違いではないか?そう思って他の本も手に取ってみたが、どれも定価より高い値付けばかりだ。

 そして奇妙なことに気がついた。同じ教科書でも値段に差がある。もちろん、古本だから古さが違って値段に差が出ることもあるだろうけれど、使い込まれているように見える本ほど高かったりする。

 これにはきっと理由がある。奥のカウンターで相変わらず本を読んでいるおばさんを横目で見て、僕はそう直感した。

 僕は高い本と安い本の差を見つけるため、本をパラパラとめくってみた。すると、どの本にも書き込みがされている。その内容もよく読み込んでみて、ようやくわかってきた。高い本ほど書き込みがわかりやすく、教科書の内容がよりよく理解できるのだ。

 それに気がついた時、僕はここの本屋で全ての教科書を調達しようと決めていた。ここの本のためなら、ご飯代くらいは惜しくない、そう思った。

 そうしてたっぷりと時間をかけて本を選んで、おばさんのいるカウンターへ持って行った。おばさんは本を閉じて普通にお会計をしてくれたが、僕はこのおばさんに訊いてみたいことがあった。

「あの、失礼かもしれませんが、この本の値付けをしたのはどなたですか?」

 そう言った僕に、おばさんは目元だけ少し笑って、答えてくれた。

「私ですよ」

「じゃあ、これらの本の内容は全部?」

「わかってますとも。自分のところの商品をよく知らないようでは商売ができませんからね」

 そう答えるおばさんの話を聞いて、僕はめまいがするほど衝撃を受けた。信じられないほどのプロフェッショナルが目の前にいる…。

 僕は何も言えなくなってしまったが、一瞬経ってその態度が失礼だと思い何か話さねばと思い至った。けれども目の前の人のあまりの凄さにやはり声を出せずにいると、店の奥から顔を出している猫が「にゃーご」と鳴いた。

 その鳴き声が固まった時間をほぐしたのだろうか。おばさんが今度は口元まで合わせて柔らかく微笑んでくれた。

「またいらしてください。『いい本』を持ってきてくれたら高く買いますよ」


 それから僕は、必要な教科書は全てこの古本屋で買った。ここの本のおかげで僕の勉強は大変はかどり、優秀な成績で大学院まで卒業することができた。

 勉強をしていると、この本に書かれた先輩方が残してくれた言葉の偉大さを実感し、自分も自身とこれからこの本が必要な誰かの為に自然と言葉を残すことができた。これを受け取るべき誰かを夢想していたのだ。多分、かつての先輩達がしていたように。

 だから、これからも必要そうな本は厳選し、それ以外の本は例の古本屋へと持っていった。

 おばさんは、査定にしばらく時間がかかるからといってお茶を出してくれた。

 何か世間話をしたかったが、それでおばさんの仕事を邪魔してはなるまいと思って、僕は静かにお茶をすすっていた。

 おばさんが本をめくり、そしていつかの猫がやはり店の奥から顔を覗かせて「にゃーご」と鳴いている。

 そのうち、ちょっとだけ不思議なことに気がついた。おばさんが本を読む後ろから、猫が顔を覗かせてやっぱり本を覗き込んでいる。そして猫がひと声鳴くと、おばさんはその本を閉じてメモを取り、次の本へととりかかる。その不思議な連動は、全ての本を査定するまで続いた。

 6年間貯めた本は、ちょっとびっくりするほどの金額になった。おばさんはとてもニコニコしながら、

「いい本をありがとうね」

と言ってくれた。

 その言葉は、勉強と研究に打ち込んだこの6年間をねぎらってくれている言葉のようで、僕はなんとなく目頭が熱くなった。

「いえ、ここの本のおかげです。本当にありがとうございました」

「お気づきだろうけど、ここの本はね、こうやって少しずついい本になっていくのよ。あなたにこれからも、いい本との出会いがありますように」

「はい、ありがとうございます」

 そして僕は店を出た。最後に、背後からあの猫の鳴き声が聞こえて振り返ったが、もうその姿はなかった。

 外は快晴で、桜色に染まっていた。

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