第113話 小鬼
仕合当日――『特別区画』内に設けられたシャルルの邸宅。
寝室から見える窓の外は、灰色に濁った曇天で埋めつくされていた。
その鈍い色合いに、カトリーヌは『歯車街』を思い出す。
子供達は元気だろうか、寂しがってはいないだろうか。
エリーゼと共用の寝室で身支度を整えつつ、そんな事を考える。
服装は普段と同じ、濃紺の修道服だ。
ただし今日は、顔を覆う為の薄いベールも用意してある。
古式に則った儀礼用の装身具だが、シャルルに頼み入手して貰った。
南方大陸出身者を忌避する者が多い『特別区画』内で、余計な揉め事を招く事無く、レオンのサポートを行う為に必要だと感じたのだ。
カトリーヌの隣りでは、エリーゼも着替えを終えていた。
その小さな身体を包むのは、背中が大きく開いたタイトな純白のドレスだ。
膝上丈のスカートにボディスーツ、更にボディス・コルセット。
ボディス・コルセットには、ゴート風の繊細な刺繍が施されている。
透き通るほど肌の白いエリーゼに、そのドレスは美しく映えた。
そしてプラチナに輝くロングヘアは、後頭部で丸く二つに纏められている。
カトリーヌの手によるものだ。
エリーゼはコートハンガーに掛けられた、フード付きマントを手に取る。
肩に羽織りながら告げた。
「今日の仕合、ご主人様のサポートをよろしくお願いします」
「うん、解ってる。任せて」
カトリーヌは力強く答え、微笑んでみせる。
エリーゼは小さく頷くと視線を反らし、改めて口を開いた。
「――仕合は……避けようも無く凄惨なものとなりましょう。やはり流血は免れません。その様子を見れば、迷いも生じましょう。可能な限り、視線を闘技場へ向ける事無く、ご主人様の体調管理に注意を払って頂けますか?」
「……うん、そうする」
その言葉にも、カトリーヌは素直に応じる。
特別区画を訪れて以降、エリーゼより何度か示唆された言葉だ。
仕合を見て欲しく無いのだろう。
エリーゼの気持ちは、なんとなく理解出来る。
「本来であればご主人様も、仕合の凄惨さを知るが故、シスター・カトリーヌにサポートを申し入れる事は無かった筈です。ですが複数の如何ともし難い問題が重なり、自らも負傷し、信頼出来るシスター・カトリーヌを頼りたかったのでしょう――」
「……うん」
「決して状況を軽く見積もっていたワケではございません。それほど追い込まれていたという事。ですのでシスター・カトリーヌ――どうかご主人様を……」
静かな口調は、普段とあまり変わらない。
ただ、何時もより饒舌なのは、不安を感じての事だろうか。
自分が闘技場に赴く事を懸念しているのだろう――カトリーヌは思う。
その気遣いが嬉しく、ありがたい。
でもその事が重荷となっているのなら、申し訳無く感じる。
カトリーヌは明るい口調で答えた。
「うん、大丈夫だよ。エリーゼのアドバイス通り、しっかりレオン先生をサポートする。ヨハンさんだって手伝ってくれる。だから安心して?」
そう、今はただ、全力を尽くす事に集中する。
揺らぐ事無く、愚直にすべき事をする。
そうする事でエリーゼの懸念を、少しでも払拭したいと思う。
「行こう、エリーゼ」
戸口の前に立ち、ドアノブに手を掛けてカトリーヌは促す。
エリーゼは紅い瞳で、カトリーヌをじっと見つめている。
その瞳が、微かに揺らいでいる。
ふと、言葉を紡ごうとしてか、唇が開きかけ――すぐにまた閉ざされた。
エリーゼの中で何事か、未だ葛藤があるのかも知れない。
或いは不安を感じているのか。
が、やがてエリーゼは小さく頷いた。
「……はい」
カトリーヌは微笑みで応じる。
そのまま二人は、共に部屋を後にした。
◆ ◇ ◆ ◇
観葉植物の鉢植えが幾つも飾られた、診療所を思わせる部屋だった。
整理整頓の行き届いた事務机の隣りには、書棚が並んでいる。
そして事務机の脇には、小柄な娘が一人。
華奢な身体に、黒いワンピースドレスを纏っていた。
細いウエストにはレザー・コルセット、足元はレザーのブーツ。
端正な相貌で目許には黒縁の眼鏡、ライトブラウンのおさげ髪が愛らしい。
『コッペリア・ベルベット』だった。
ベルベットは軽く目を伏せ、佇んでいる。
そんなベルベットを診察椅子に座り、見上げるのはベネックス所長だ。
「――次はマルセル君の息子、レオンが相手だ。『アデプト・マルセル』の息子さ……これに勝てば一息に、私達の悲願へ近づく事が出来る」
ワインレッドのフリルブラウスに、黒のロングスカート。
黒のボディス・コルセット。
ウェーブ掛かったライトブラウンのロングヘア。
涼しげな目許に、銀縁の眼鏡。
両手を伸ばしては、ベルベットの胸元に白いリボンを結わえていた。
「私達の悲願だよ、ベルベット。そうさ、ジブロールの事を覚えているかい?」
ベネックス所長は穏やかな口調で、そう囁いた。
次いで事務机の上に置かれた、黄色いローズコサージュを手に取る。
白いリボンの上に、ピンで留めながら続ける。
「――私は、東方都市『ジブロール自治領』での生活を忘れた事が無い。穏やかで静かなところだった、そうだろう? 山間に連なる赤い瓦屋根の古い建物、緑豊かな大森林、美しい渓谷、ガラリア・イーサの街並みなんて全く比較にならないほど、美しかったよね」
指先でコサージュの形を整えるベネックス所長を、ベルベットは見つめる。
そしてコクリと、小さく頷く。
澄み切った眼差しには、欠片ほどの邪気も無い。
「山を登る牛の群れ、ブドウ畑にカブの畑、森には鹿がいて、小川のせせらぎが聞こえ、キノコも採れた。静かで穏やかで、空が青くて、満たされていた……ガラリアの連中が来るまでは」
ゆっくり立ち上がったベネックス所長は、ベルベットの頭を撫でる。
ベルベットは黒縁眼鏡の奥で、目蓋を閉じる。
「全てが変わった。壊された、潰された、ガラリアの連中に。キミたちは反発した、居場所を守る為に、美しいものを守る為に、愛すべき人を守る為に、武器を手に取った者がいた事を、私は覚えている」
傍らのワードローブから、深緑色のコートを取り出す。
ベルベットに差し出しながら続ける。
「故郷を追われ、踏み躙られて、黙っていられる筈も無い、そこの歴史、そこの文化、そこでの暮らしを冒涜されて、どうして黙っていられよう。そう思う者達が大勢いたんだ、覚えているだろう? ベルベット」
ベルベットは袖に腕を通しながら、再び頷く。
ベネックス所長は、自身も黒いコートを羽織る。
「だけどガラリアの連中は言うんだ。家族の為、町の為、誇りの為に戦ったジブロールの人々を、銃撃しながら蔑むんだ。ジブロールの連中は、山に棲む小鬼だ、資源を独占しようとする悪辣な小鬼だ、恥知らずな『ゴブリン』だってね。彼らは『ジブロール自治領』の人々を『ゴブリン』だと言っていた、『ゴブリン』共がいなくなれば、この自治区も正しく機能するとね……」
ゆっくりと歩き始める。
「政治的に正しいのか、法的にどうなのか、そんな事は関係が無い。確かな事は、ガラリアの連中は『グランマリー』の信徒として『ジブロール自治領』を食い物にしたって事だ。『グランマリー』の信徒であるガラリアの連中が、ジブロールの人々を『ゴブリン』と呼び、蔑むのなら――もはやそれでも構わない。その『ゴブリン』が、いったいどれほどの物なのか、行って見せてやろう」
部屋のドアノブに手を掛けて呟く。
「私達は『神性』を否定する為に、ここまで来た。『ゴブリン』として『人』の英知をこそ至高とすべく、ここまで来た。ガラリアの連中に見せつけよう、『神性』を否定する『ゴブリン』として、ガラリア貴族の前に見参しよう。私たち――『ゴブリンズ・バタリオン』が見参するんだ」
ドアが開かれると戸口の向こうには、暗い眼差しの男達が控えていた。
ベネックス所長の姿に気づいた男達は、軽く目を伏せ、頭を下げる。
ベネックス所長は、男達の前を悠然と横切りながら言った。
「――マルセル君の息子は、ここで潰す。行くぞ、ベルベット」
後に続くベルベットは、ベネックス所長の言葉に頷き、息を吐く。
下弦の月を思わせる口許から、ギザギザとした鋭い歯並びがゾロリと覗いた。
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