第61話 老獪
エリーゼの右手が一気に引き絞られる。
更に左腕が波打つ様に踊る。
グレナディの視界には、長刀を構えた自身の姿と、床に倒れたエリーゼの姿が――そして二人を完全包囲し、傲然と襲い来るダガーの群れが映り込んでいた。
ダガーは全て、長刀を振り被るグレナディに、全方位から狙いを定めている。
その数またもや十二本。
「……!?」
全てを目視していた筈だ。常に警戒していた筈だ。
『天眼通』を以て万全に見張り、そしてエリーゼの攻撃を封じた。
そこから反撃に転じ、逃げ惑うエリーゼを追撃し、追い詰めて――。
つまり――追撃時、このタイミングで。
エリーゼは攻撃を回避しつつ、ワイヤーを伸ばしていたという事か。
床の上に散らばる、何本もの断ち切られたワイヤーに紛れ込ませ、新たにワイヤーを伸ばしていたと。
そのワイヤーを以て、床に弾かれ放置されたダガーを密かに捉えていたと。
そんな事が可能なのか。
ダガーは弾き飛ばされ、叩き落とされ、無造作に散らばっていた。
何よりエリーゼへの追撃は、生ぬるい物では無かった。
必殺必死の意志を込めて繰り出した、徹底的な連続攻撃だ。
そんな攻撃を回避しつつ、床の上に散らばるダガーを探す事など。
グレナディはエリーゼの発言……先の長広舌を思い出す。
長々と詰る様な言葉、安い挑発だと聞き流していた。
下らぬ時間稼ぎで、己が体力の回復を図っているのだと思っていた。
そうでは無かった。
あの時間でエリーゼは、床に散らばるダガーの位置を把握していたのだ。
だからこそ、回避の最中に有っても的確にワイヤーを伸ばす事が出来たのだ。
更に、エリーゼは苛烈な攻撃の中で徐々に追い詰められ、被弾していた。
被弾の度に流血を繰り返していた。
被弾と流血に、グレナディは必勝を感じていた。
それが誤りだった。
必勝を意識した事で、油断が生じたのだ。
油断に乗じてエリーゼは、ワイヤーを伸ばしていた。
散らばるダガーの位置を予め把握し、次々と絡め取っていた。
しかも――この位置。
全方位から一斉にダガーが襲い来るという、この位置。
この位置への誘導も。
攻撃を逃れながら、そうとは悟られぬ様に。
闘技場に散らばるダガー群の中心へと。
全ては――この攻撃へ繋ぐ為の布石か。
石火飛び散る程に瞬時だった。
どれほどに薄い瞬間か、その狭間でグレナディは逡巡する。
防御せねば。回避せねば。
しかし。この状況ならば。
不完全なれど一太刀浴びせる事も。否。
生半可な防御では、相応のダメージを負う可能性もある。
しかし、否、しかし――。
この逡巡に、エリーゼの言葉が蘇る。
『痛み』無くして『瀬戸際』を測る事など――。
「くっ……!」
――違う。
ヨハンより与えられた『天眼通』こそが。
『天眼通』が見誤る事など、無い。
グレナディは右手に握り締め振り上げた刃を、エリーゼに向けて解き放つ。
必殺出来れば良し、出来ぬまでも手傷を増やす。
その流れのままに身体を旋回、全方位から迫るダガーを、撃ち落とすつもりでいた。
が、その一閃が――神速無双である筈の一閃が、当たらない。
刃は床に敷かれた石板のみを切り裂き、一直線に火花を巻き上げた。
回避されたのだ。
エリーゼは床に倒れたまま、予備動作無しに、右へとスライドしていた。
ワイヤーだ。
先の攻防でグレナディが、床に落ちたロングソードを利用すべく放ったと、そう認識していたフック付きのワイヤーだ。
放たれたワイヤーは更に先へと伸び、床板の隙間を捉えていた。
そうする事でエリーゼの身体を牽引し、回避行動を成立せしめていた。
グレナディは身体を翻し、左の鉄鞘にて打撃を狙う。
だが僅かに届かない、唸りを上げて空を切るばかりだ。
おのれっ……と、声を上げる事も出来ぬまま。
直後、グレナディの全身に全方位から、ダガーの弾雨が降り注ぐ。
「おおおっ……!!」
グレナディは全身をキリリと旋回させ、左右の獲物を猛然と振るう。
耳を劈く金属音が立て続けに響き渡り、辺り一面に火花が咲き誇る。
そして血飛沫が飛び散る、捌き切る事が出来ず、被弾したのだ。
先の逡巡が迷いを生み、迷いが切っ先の乱れを呼んだ。
加えて十二本のダガー全てを、誤って観覧席へ弾き飛ばす事無く、適切に下へ叩き落さねばならないという意識の『縛り』が、防御の難易度を引き上げていた。
それでも、万全の状態であれば十分可能な技だ。
それが今は出来ない。
揺れている為だ。
エリーゼに嵌められたという想いに。
『瀬戸際』を見誤ったという想いに。
精神が揺れていた。
音を立てて、グレナディの肩口にダガーが突き刺さる。
その衝撃に気を取られ、大腿部にも刃がめり込む。
次いで脇腹を、背中を、切り裂かれる。
「ちぃっ……」
火花と血風吹き荒ぶ視界の中、エリーゼが逃れて行く。
そうはさせじとグレナディは、強引に間合いを詰めようとするが、叶わない。
エリーゼの両腕が激しく靡き、踊る。幾つもの風切り音が周囲に満ちる。
ダガーによる攻撃が途切れない、終わらない。
先の攻防でも繰り出された、驚異的なジャグリングだ。
弾かれたダガーをワイヤーにて絡め取り、間髪置かず再度射出する――人智を超えた恐るべき神業が、グレナディの周囲で発動していた。
刃を振るいダガーを弾けど、うねるワイヤーに捕縛される。
そこから五本、六本のダガーが、空中で折り返し、再び飛来するのだ。
前方から、側面から、後方から。
同時に、或いは絶妙にズレたタイミングで襲い掛かって来る。
もはやエリーゼを追う余裕は無い。その場に釘付けとなる。
それでも。
それでも対応している。
動揺の中で状況が悪化、手傷を負ってなお、グレナディは崩れない。
驚異的な見切り――『天眼通』と『神経網』。
この二つの能力が、グレナディに神懸った鉄壁をもたらしている。
全方位からの同時多発攻撃を、グレナディは凌ぐ、凌ぐ、凌ぎ切る。
やがて怒涛の集中砲火が途切れ、全てのダガーが地に落ちた。
グレナディは両腕を垂らし、立ち尽くしている。
呼吸が荒い、肩で息をしている。
身に纏う深緑のコルセット・ドレスが切り裂かれ、血に染まっている。
肩口と大腿部には、スローイング・ダガーが突き刺さったままだ。
強引に引き抜く事で、大出血の可能性を懸念しているのかも知れない。
その口許は、とうに笑みの形を放棄している。
奥歯を食い締めつつ、顔を上げた。
グレナディが顔を向ける先、八メートルの位置。
エリーゼが佇んでいた。
全身が紅い。血に塗れている。
その身を包むドレスが純白だったとは、もはや誰も信じないだろう。
エリーゼもまた両腕を垂らし、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
頬の傷から流血している事を差し引いても、顔色が悪い。
万全な状態で無い事は明白だった。
それでもエリーゼの姿に乱れは無い。
背筋を伸ばし、立っている。
足元には何時の間に回収したのか、ロングソードが倒れている。
背後に浮かぶダガーは無い、腕が止まっている。
垂らした両腕から、複数のワイヤーが床へと伸びているのが見える。
先の神業を駆使して後、ダガーもワイヤーも回収していないのだろう。
再度の攻撃に備えているのかどうなのか。
やがてエリーゼは、吐息を漏らしつつ呟く様に言った。
その口許に、笑みは無かった。
「――精霊ラミアーの『天眼通』。その在り方に、私は驚きを禁じ得ません」
「……」
グレナディは呼吸を繰り返しつつ、答えない。
決して浅くは無いダメージを負っている。
精神が揺らぎ、不覚を取った。
心身が落ち着くまで時間を稼がねばならない、そう考えている。
「精霊ラミアー……その成り立ちには諸説あり、複数の存在として語られつつ――貴方の根底には、子を想う母の『慈愛』と、子を失った母の憤怒に由来する『闘争』、この二つの逸話が在る筈――」
クリスタルグラスの縁を指先でなぞる様な、澄んだ声音だ。
ただ、微かにその声が掠れている。
「――そして『天眼通』とは、我が子の死に起因する不眠の苦しみを癒す為、古の魔神より授けられた奇跡『己が眼球を取り外して安らぎを得た』という伝承に起因しているのでしょう。その伝承が転じ、何処までも見通す慈母の眼差し、或いは魔力秘めたる眼となった――それが『天眼通』の原型……」
血に塗れてはいても、表情や立ち姿に変化は無い。
しかし、全身に負った夥しい裂傷と流血は本物だ。
ダメージは明白であり、そのダメージと疲労が、声に滲み出しているのかも知れない。
「……そう仮定したとしても。その伝承を持つラミアーを錬成したとて『天眼通』などという途方も無い能力は得られぬ筈……そう思っておりました。にも拘らず、その能力は確実に存在する、そう判断せざるを得ない。試合開始時より感じる、全身を刺す様な視線――確実に見られているという実感」
「愛しき主・ヨハンより授かった『天眼通』は本物ですよ……」
落ち着いた声でグレナディは応じた。
呼吸が整いつつあった。
受けたダメージは測れない、が――動かぬという事は無い。
己が身体に意識を向ければ、稼働が可能であると理解出来る。
エリーゼの言葉が続く。
「――ヨハン・ユーゴ・モルティエ。『電信』『電話』のシステムに、生物学的アプローチを以て技術革新をもたらした……一般的には、電信波動を人体の神経になぞらえ、精度を高めたと認識されている様ですが、実際には違う。論文によって開示された資料によれば、二点間の送受信機を正確に繋ぐべく使用された技術は、特殊で簡易なエメロード・タブレットを用いた『雌型と牡型の疑似生命』の封入。その精神交換を以て、情報伝達の精度を上げたとか」
「……」
グレナディは理解していた。
エリーゼの手から伸びたワイヤー、あれは稼働可能な臨戦状態にあると。
そして自身の立つ場所が、闘技場に散らばったダガーの中心に在ると。
つまり、備えなければならない。
仮に今動けば、そのまま交戦状態になる。
消耗した今の状態での戦闘再開はリスキーだ。
先の攻防から考えてこの状態は、エリーゼに利がある。
散らばったダガー位置の把握、或いは詐術を用いての揺さぶり。
「錬成技師ヨハンは……人の心、想い、その成り立ちに、強い関心を寄せていたのでしょう。でなければこの発想には至らず、実行に移そうとは思わない。錬成したオートマータは『ラミアー』――母と子の情愛、或いは男女の情念から連なる複数の伝承を持つ精霊。多産の象徴とも、多くの子を持つとも伝えられています。そして『電信』に関する開示された情報、更にはこの視線――」
それでも……体力回復の時間は稼げる。
エリーゼの狙いと、こちらの体力回復、利害が噛み合っているのだ。
ならば利用すべきだ。
エリーゼの体力はダメージの深さ故、そう簡単に回復しまい。
それは確実だろう、隠しても解る。
声音に疲労が滲んでいる事を、グレナディは聞き逃さなかった。
「貴方が入場して来た東方門、そちらに設けられた待機スペースの、白いドレスを纏った少女――明確に解る視線はまずそちらから。それ以外にも闘技場内いたる所から、殺気にも似た視線を感じます。それが恐らく答え――」
グレナディは深く呼吸を繰り返しつつ、大腿部に刺さったダガーを、鉄鞘の一閃で真上へ跳ね上げ、更に真横へ打ち払い、彼方に弾き飛ばした。
「――無駄話もそろそろお終いですかね? その妄想……正誤に関わり無く『天眼通』は事実であり絶対、多少の事では崩れません」
言いながらグレナディは半身に構えると、片脚を後ろへ引いた。
一気に距離を詰めようという事か。
呼応する様に、エリーゼの両腕も左右へと開かれる。
そして、囁く様に告げた。
「絶対を誇る『天眼通』……ですが、その業には限界がある」
「そう思うのは勝手ですよ……?」
グレナディは身体を沈めつつ答える。
更に顔を伏せて、低く、低く。
力を溜めながら言った。
「……エリーゼの妙な技も、恐らくそう長くは続けられないのでしょう?」
その言葉に呼応して、血に塗れたエリーゼの両腕が踊る。
グレナディを中心に、凡そ半径一〇メートル。
一〇を超える光球が、ゆらりと空中に浮かび上がる。
微細な風切り音に混じり、エリーゼの声が流れた。
「――出し惜しみなど一切無く、己が全てを吐き出しましょう」
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