第30話 絶技

 豪奢で絢爛な部屋だった。

 天井が高く、驚くほどに広い。

 教会の礼拝堂もかくやとばかりの広さだった。


 広々とした部屋を飾るのは、暖炉を模した白い大理石のマントルピースだ。

 マントルピースが据え付けられた壁には、繊細なダマスク柄が描かれている。

 更には美しい貴婦人の肖像画が幾つも飾られており、そんな肖像画を淡く照らし出しているのは、蔓草の形状を模したウォールブラケット。

 高い天井には優美な曲線で構成された、クリスタルのシャンデリアが揺れ、シックな風合いのカウチとローテーブルに、磨き抜かれたカクテル・キャビネットに、深い輝きを与えている。

 室内に複数設けられた大きな窓には、幾重にもドレープの連なる厚手のカーテンが掛かっており、臙脂の色も相まって、劇場の観覧席を思わせた。


 そんな贅を尽くした部屋の中央。

 カーテンと同色の、絨毯の上。

 一人の娘が立っていた。

 一九〇センチに届く長身だが、均整の取れた見事な身体つきをしている。


 滑らかな肌は汗に塗れ、仄かに光沢を帯びていた。

 豊かな乳房が重く揺れ、くびれた腰と、張りのある尻が、艶かしくも研ぎ澄まされた曲線を描いていた。

 妖美妖艶という言葉が相応しい、蠱惑的な肢体だった。

 同時にそのシルエットは、圧倒的な力強さに満ちていた。


 引き締まった腹部には筋肉のラインが、くっきりと浮かび上がっている。

 肩と背中の肉は、鋼線の束を思わせる。

 しなやかに伸びた逞しい右腕には、焔の刺青が施されている。

 短くカットされた黒い頭髪が揺れ、紅い瞳が濡れた様に光っている。 

 口許には蕩ける様な微笑。

 ラークン伯が所有する戦闘用オートマータ、ナヴゥルだった。


 ナヴゥルはその身に、何ひとつ纏ってはいない。

 全裸だ。

 いや、正確には違う。

 その両腕に、肘から指先までを覆う、金属製の強化外殻を装備していた。

 それは中世時代の騎士が身につける様な、甲冑用の籠手を髣髴とさせる代物で、前腕部に分厚い装甲を、可動部分には複雑精緻な蛇腹構造を用いていた。


 鈍く発光しつつ、淡い蒸気を放つ強化外殻の籠手には、長さ二.五メートル、重さ三〇キロを超える長大かつ巨大な戦斧――ハルバードが握られており、ナヴゥルはそれを、軽々と緩やかに振るっていた。


 その動きは、以前グランギニョールで見せた様な、豪快かつ剛力を駆使した戦闘スタイルからは想像もつかない程に精妙、かつ洗練された物だった。

 爪先で立ち、背筋を伸ばし、両腕を差し出したまま、重厚な戦斧を巧みに旋回させつつ、自身も舞うが如くに音も無く移動する。

 腕に覚えのある者ならば、その動きを一目見ただけで、ナヴゥルの力量が常人の域を遥かに超えていると悟るだろう。


 そんなナヴゥルの演武を見守る者が、この部屋には三名存在した。

 まずは部屋の入り口に立つ男が二名。

 黒のラウンジ・スーツを着用し、表情を変える事無く、直立不動の姿勢を崩さない。

 髪型も顔立ちも非常に良く似た二人の男は、訓練を積んだ使用人なのだろう。

 しかし、いずれも右手に抜き身の拳銃を携えている有様は異様に映る。

 

 残る一人は部屋の奥に設けられた、巨大な天蓋付きベッドの縁に、腰を降ろしていた。

 ゆったりと丈の長いハウスコートを身に纏いながらも、丸々と肥え太っている事が、はっきり見て取れる程に、膨張した身体つきをした男だった。

 薄い頭髪に切り揃えた口髭。

 だらしなく弛んだ頬に、垂れ下がる顎の肉。

 芋虫の如き指で突き出た腹を撫でつつ、濁った眼でナヴゥルの裸身を見つめている。 

 

 おぞましいという形容が相応しい肥満ではある。

 しかし彼を、そう揶揄出来る者などガラリアには存在しない。

 古の大貴族であり、ガラリア屈指の実業家。

 ジャン・ゲヌキス・ポンセ・ラークン伯爵、その人だった。


 肌を晒し、甲冑籠手のみを装着したナヴゥルは、漂う蒸気を淡く身に纏いつつ、優雅に鋼鉄の戦斧を振るい、ラークン伯へ微笑み掛ける。

 その表情は喜びに満ち、戦斧で空間を薙ぐ姿もまた、美麗極まりない。


 舞い続けるナヴゥルの周囲には、それなりに空間が設けられているが、ただひとつだけ、ナヴゥルから程近い位置に、ラウンド・テーブルが配置されており、その上には赤ワインの注がれたワイングラスが置かれていた。

 

 ナヴゥルはラウンド・テーブルに、戦斧を振るいつつ、近づく。

 徐々に、重く鋭い風切りが響き始める。

 振るわれる戦斧の勢いが増したのだ。

 鋼の刃が、テーブルに掠めるギリギリの距離を、何度も通り抜ける。


 不意に。

 ナヴゥルは爪先で跳ね上がると、空中でキリリと独楽の様に旋回した。

 横薙ぎに疾走る戦斧は、空中に輝く複数の銀輪を描く。

 やがてその先端は一筋の光と化し、ラウンド・テーブルへと吸い込まれた。

 次の刹那。


 ナヴゥルは一切のブレも無く、得物を握った右手を伸ばし、制止していた。

 伸ばし切った右腕、金属甲冑の籠手が掴む戦斧――その先端。

 白々と光る刃の上。

 ワイングラスが乗っていた。


 テーブルの天面と、ワイングラスのプレート部。

 その隙間へ、ナヴゥルは神速を以って戦斧の刃を通したのだ。

 まさに神業――誰しもがそう考えるだろう、しかし。

 真の神業はここからだった。


 拳銃を携えて戸口に立つ男達の右手が、恐るべき勢いで跳ね上がった。

 ナヴゥルへ向かって真っ直ぐに。

 同時に三発ずつ、連続して発砲音が弾けた。

 

 使用人二人の右手から突き出された銃口。

 火薬の匂いと白煙が室内に漂う。

 狙撃されたナヴゥルは倒れずにいる。

 伸ばした右手に戦斧を構えたまま、微動だにせず立っている。

 放たれた弾丸はどうなったのか。


 甲冑籠手を装着したナヴゥルの左手が、顔前へ翳す様に掲げられている。

 その指は閉じられており、拳の形をとっている。

 その瞬間を見る事が出来た者は、一人もいない。

 しかし、何が起こったのかは明白だった。

 頭部と胸部目掛けて放たれた六発の弾丸は、全て空中で掴み取られたのだ。


 戦斧の刃に乗ったワイングラスは、些かのブレも見せていない。

 ワインは一滴のハネも見せていない。

 不動のままに、放たれた弾丸を六発全て、掴み取っている。

 それも、ワイングラスを見つめたままだ。

 ナヴゥルは、飛び来る弾丸を目視する事無く、防いだのだ。

 それは、人間の理解を遥かに超えた絶技だった。


 満足気な吐息と共に、低くしゃがれた男の声が室内に響いた。


「見事だ、全く見事だ……ナヴゥルよ。既に、完璧に仕上がっているのだね……惚れ惚れする……美しい……美しいぞ、ナヴゥル……」


 天蓋付きのベッドに腰を降ろす、ラークン伯だった。

 蛇腹の様にダブついた顎肉を震わせながら、言葉を続ける。


「さあナヴゥル……勝利の前祝いだ、共にワインで喉を潤そう……私の傍へ来ておくれ……美しいナヴゥルの姿を、顔を、もっと良く見たいのだよ……」


 ラークン伯は締まりの無い腕を伸ばし、笑みを浮かべた。

 そんな伯爵に、ナヴゥルは嫣然と微笑み掛け、静かに歩み寄る。

 左手に握った六発の弾丸を、ラウンド・テーブルの上へ転がし、伸ばした右手に握る戦斧を、軽く上へと傾けた。

 刃に乗ったままのワイングラスは、倒れる事無く刃の上を滑り、鋼鉄の柄の上すら滑って伝い――やがて弾丸を手放したナヴゥルの左手へ納まった。

 何気ない動きではあるが、これも驚愕の繊細さだ。


「ふふっ、物好きなものよ、我が主は……。我の様な化け物に、その様な世辞を……」


 ワイングラスを手にしたナヴゥルは、微笑みと共にベッド脇へ辿り着く。

 右手の戦斧をカウチ・ソファへと立て掛け、ラークン伯へ身を寄せる。

 ベッドのマットレスから、スプリングの軋む音が聞える。

 だらし無く煮崩れた様なラークン伯の身体に、逞しくも美しいナヴゥルの裸体が絡みつく。 

 その背後で、戸口に立つ二人の使用人達は、一礼と共に部屋を出て行く。


「ナヴゥル……お前は化け物などでは無い、美しい娘なのだ……この私が誇りたくなる程に美しく、そして強い娘だ……何度も言わせんでくれ、ほっほっ……」

  

 身体を預けて来るナヴゥルの腰に腕を回しながら、ラークン伯は囁く。

 ナヴゥルは左手のグラスに唇をつけると、ワインを口に含んだ。

 そのままラークン伯の首に腕を回し、脂ぎった分厚い唇を自身の唇で塞ぐ。

 濡れた音が響き、ラークン伯の口から零れたワインが、上下に動く喉元へ流れてゆく。

 四秒、五秒……やがてゆっくりと、ナヴゥルは唇を遠ざける。

 ワインの雫が、赤い舌先からトロトロと滴る様が艶かしい。

 うっとりと蕩けた眼差しで、嬉しそうに吐息を洩らす。

 

「ん……我が主は世辞が上手くて困る……。本当にそうであるのかと、勘違いしてしまいそうだ……醜い化け物に過ぎぬ我に向かって……」

 

 艶やかな唇から零れる言葉は、しかし、どこか自虐的だ。

 そんなナヴゥルの耳元で、ラークン伯は甘く囁く。

 

「ナヴゥルよ……前世がどうあれ、過去がどうあれ、今のお前は違う……違うのだ。虐げられた化け物などではない……お前は暴虐と死を司る、美しき精霊なのだよ? それを忘れないでくれ」


「ああ……我が主……ん……」 


 ナヴゥルは感極まった様に声を上げ、ラークン伯の太く短い首に腕を回す。

 改めて唇を重ね、貪る様な接吻を繰り返す。

 次にナヴゥルの吐息が漏れたのは、幾分かの時が過ぎた後だった。 


「ふぅっ……愛しき我が主よ……我に出来る事なら何でもしてみせよう、主の剣として、盾として、主の望みを、望むがままに叶えよう……」


 ナヴゥルの言葉を聞いたラークン伯は、嬉しそうに眼を細める。

 逞しい背中に、豊かな乳房に指を這わせつつ、口を開いた。


「嬉しいぞナヴゥル……ならば頼みたい事がある……」


「何なりと命じられませい……」


 ナヴゥルは潤んだ瞳で応じる。

 ラークン伯は満足気に頷くと、息を吐きながら言った。


「……次の仕合、対戦相手であるコッペリアを、必ず討って欲しい。衆光会のコッペリアだ……。ナヴゥルも覚えているだろう? お前の神聖なる決闘を侮辱し『レジィナ』への挑戦権を遠ざける原因を作った連中よ……」


 その言葉を聞いたナヴゥルは、微かに眉を顰めて答える。


「……我が主よ、それは我の責だ、主に『レジィナ』の高みを捧げる事が出来なくなったのは……」


 ラークン伯は、ダブつく顎と頬肉を震わせつつ、首を横に振る。


「違う……ナヴゥルのせいでは無い、ナヴゥルのせいでは無いのだ、『レジィナ』への条件たる、確殺の機会をお前から奪ったのは、衆光会の若造だ、あやつの暴挙に拠るものだ……」


 それは、ナヴゥルの設計者であり、現『レジィナ』――序列第一位コッペリア――の所有者でもある天才練成技師、マルセル・ランゲ・マルブランシュとの間で正式に交わされた、ある条件の話だった。


『衆光会より参戦するコッペリア『アーデルツ』との仕合に際し、そのエメロード・タブレットを確実に損壊せしめ、勝利する事で、『レジィナ』挑戦の権利が『ナヴゥル』に与えられる物とする』


 しかしその条件は、シャルルが闘技場へ乱入した事により仕合が中断、不履行となり、レジィナ挑戦の権利は保留となってしまっていた。

 ラークン伯は更に言葉を続ける。

 

「それだけでも十二分に腹立たしいが……更に彼奴ら、仕合での無礼だけでは飽き足らず、私の事業計画にも横槍を入れて来たのだ」


 言葉の端々に、怒気と侮蔑が滲む。

 土地取引の件に関して、強い憤りと苛立ちを覚えているのだろう。

 その想いを、ラークン伯はナヴゥルに伝える。


「私の正当な要求に、あろう事か姦計で応じた、二度までも彼奴らは私を愚弄したのだ、頼む、ナヴゥルよ。私の屈辱を、グランギニョールの舞台で晴らしてくれ。僅かほどの希望も残さぬ様、失意の底で喘ぐほどに、討ち倒して欲しい……」


 声を震わせ訴えるラークン伯に、ナヴゥルは頷き応じる。


「承知した、我が主よ……。その屈辱、必ずや雪ごう……愚昧の輩に絶望と恥辱を、耐え難き死を与えよう。絶対の確殺は首を捥ぐ事で成立せしめ、胴は肉片として散らし、その無残と憐れを以って願いの成就としよう……ん……」


 そして再び微笑むと、ラークン伯の唇に吸いつく。

 粘ついた音と、熱を帯びた喘ぎ声、そしてベッドの微かな軋み。

 やがてラークン伯は太り切った身体を起すと、逞しくも美しい裸身を組み敷きながら囁いた。


「――ナヴゥル、お前は最高の娘だ……頼んだぞ、私の願いを叶えておくれ……愛おしい娘よ……」

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