危機意識

第20話 意思

 各種郵便物を取り扱う郵便局は、一般居住区内に複数設けられている。

 商業区画の郵便局はレンガ造りの二階建てで、クリームイエローの漆喰壁に鉄格子の嵌った窓、入り口に掲げられた看板には郵便ラッパのイラスト、そして駐車スペースの黄色い運搬用蒸気駆動車両が目印だった。

 

 郵便局周辺には中小規模の造船や鉄鋼、酒造、加工食品といった複数の会社、そして土地管理、法律関係の事務所が並んでおり、雑然とした商店街とは多少街並みが異なる。

 人通りもややまばらな印象で、いわばオフィス街と言ったところか。

 

 買い物袋を抱えたカトリーヌは、診療所で使用する消耗品の発注を行うべく、エリーゼと共に郵便局を訪れていた。

 施設内はそれなりに広く、待合スペースには壁に沿って木製ベンチが三列。

 入り口正面に設けられた受付カウンターには、窓口が四つ並んでいる。

 窓口には鉄格子が嵌め込まれており、客側からカウンターを乗り越えて内へ侵入する様な事は出来ない、郵便局では個人や民間企業の預貯金が可能となっている為、警備上の観点から、この様な措置が取られているのだ。

 終業が近い為、待合スペースで順番を待つ者の数も多く無かった、カトリーヌの前には大きな鞄を抱えた、背の低い白髪の老婦人が一人いるだけだ。


 程無くして呼び出しを受けたカトリーヌは、窓口で速達郵便の手続きを行い、切手代を支払う、そして診療所で出力した用紙を封筒に添えて提出する。職員は封筒に切手を貼ると消印を押し、明日午後には配達出来ます、と告げた。

 

「エリーゼ、お待たせ!」


「はい、シスター・カトリーヌ」


 両手に買い物袋を抱え、待合スペースの木製ベンチに腰掛けていたエリーゼは、手続きを終えたカトリーヌの姿を見て立ち上がる。

 買い物袋はカトリーヌから預かった物で、子供達が聖誕祭で使う為の工作用雑貨が納まっている。

 カトリーヌが袋を持つよと手を伸ばすも、エリーゼはそれを固辞した。


「やはり侍祭である事を示す修道服を着用している以上、第三者の視線も考慮して、私が持つべきでしょう。それがグランマリーに倣う姿勢というものではないかと」


「ああ……うん、ありがとう、エリーゼ。でも固いよ……昔はともかく、最近はそういう方針も緩くなって来てるんだよ?」


 悪戯っぽい笑みと共に、カトリーヌはエリーゼを伴って歩き始める。

 エリーゼはカトリーヌの後を追いながら、そうなのですか? グランマリー教の方向性が変化しているのでしょうか? ……などと質問する。

 他愛の無いやり取りを楽しみながら、カトリーヌは郵便局の扉を開いた。


 何時の間にか、夕闇が街を包み込んでいた。

 街路に設けられたエーテル水銀式の街灯に、黄色い明かりが燈り始める。

 気温も随分と下がり、通りを歩く人影も減り、帰路を急ぐ者の多くは外套の襟を立てている。


 カトリーヌの着ている修道服は肌の露出が少ない為、寒さを凌ぎやすい、とはいえ冬季用の外套を着るにはまだ早いと、一枚羽織って来なかったのは誤算だった。しかしグランマリーの助祭である自分が背中を丸めて歩く事など出来ない、エリーゼと共に背筋を伸ばして歩き続ける。


 閑散とし始めたオフィス街は、街灯の明かりがあるとはいえ薄暗い。

 商店街沿いであれば店頭の明かりも夜通し絶えず、まだ歩きやすい。

 多少遠回りにはなるけれど、人通りの多い道を選んで帰ろう……そんな事を、カトリーヌが考えていると。

 不意に背後から、悲鳴が響くのを聞いた。


◆ ◇ ◆ ◇


 止めてっ……という、悲痛な声は恐怖に掠れていた。

 ドサッ、と何かが倒れる音と共に苦鳴。

 そしてバタバタと走る複数の足音。

 その異様な気配に、カトリーヌは振り返る。

 距離にして二〇メートルほど後方、大柄な男が二人。

 真っ直ぐこちらに向かって走り、突っ込んで来るのが見えた。


 どちらも凶相であり長身、一九〇センチ程もありそうだった。

 身につけている暗褐色のジャケットは分厚くだぶついているが、それでもはっきりと解る程に手足が太く、身体つきもゴツゴツとした岩か何かの様だ。

 うち一人は、小脇に大きな鞄を抱えている。


 男達の数メートル後ろでは、老婦人が路上に倒れ臥している。

 額を負傷したのか、血が赤く滲んでいる。

 薄暗がりで、はっきりとは見えない。

 しかし背の低い白髪の老婦人に、カトリーヌは覚えがあった。

 つい数分前、郵便局の待合スペースで見かけたばかりだ。

 膝の上に大きな鞄を抱え、順番を待って座っていたのを覚えている。

 つまりこれは、そういう事なのだ。

 

 二人の男達は口の端に嫌な笑みをへばりつかせたまま、猛然と走って来る。

 窃盗の成功を確信した、下種な笑みだった。

 老人から金品を奪う事に、欠片ほどの罪悪感を覚えていないのだろう。

 後ろを一切気にする事など無く、それどころか前方にいるカトリーヌとエリーゼすら気にする様子も無い、突き飛ばしてでも走り抜けるつもりだ。


「どけっ! 道を開けろっ!」


 カトリーヌの耳に、獰猛かつ野卑な声が響いた。

 それは警告だった。

 男達は二人とも、カトリーヌとエリーゼに対して何の感情も抱いていない。

 路傍の石以下にしか見ていない。

 退けと言ったのは、純粋に邪魔だから、それだけの事なのだ。


 あと数秒もしないうちに、男達はカトリーヌの許へ突っ込んで来るだろう。

 進路を邪魔すれば薙ぎ倒される、それは間違いなかった。

 ならば脇へ退き、盗人に道を譲り、事無きを得たと安堵する事が正しいのか。

 老婦人は未だに立ち上がる事も出来ない。

 怪我を負っている。

 何ひとつ、落ち度など無いのに。


 カトリーヌはその場で立ち止まり、男達の方へと向き直っていた。


 今この瞬間。

 己の行いが正しいのか、間違っているのか。

 解らない。

 怪我をするかも知れない、事態は何も改善しないかも知れない。

 でも、ただひとつ、断言できる事がある。


 事に於いて、胸を張れる自分でありたい。

 その為に、私はグランマリーの助祭となったのだから。


「エリーゼッ! 道の脇へ下がって!」


 七歳の時。

 カトリーヌは、家も、両親も、街ごと全てを失った。

 内戦で紛争状態に陥った、ガラリアの南方植民地・マウラータでの事だ。

 業火の中で寄る辺無く逃げ惑い、しかし逃げ場など無く、未来も無かった。

 港町だったマウラータは、爆煙の立ち昇る地獄と化していた。


 死の恐怖と飢餓、苦痛、孤独。

 誰にも頼れず、誰もいない。

 そんなカトリーヌに唯一、救いの手を差し伸べたのは。

 血塗れの修道服を身に纏った、グランマリーのシスターだった。


 そのシスターは身の危険を顧みる事無く、ボロボロになりながら、銃弾の飛び交う戦地からカトリーヌを救い出し、保護したのだ。

 あのシスターに救われなければ、カトリーヌは生きていなかった。


 カトリーヌは自分の手を引いてくれたシスターの背中を、今でも覚えている。

 血に塗れて、ボロボロの背中だった。

 だけどそのシスターは、カトリーヌの手を決して離さなかった。

 血塗れの背中は、カトリーヌを最後まで裏切らなかった。


 その姿にこそカトリーヌは、揺るがぬ正しさを見たのだ。

 だからこそカトリーヌは、聖職者を目指したのだ。

 

「止まりなさいっ!」


 両手を大きく左右に広げ、カトリーヌは男達の行く手を塞いだ。

 男達がこのまま突っ込めば、正面からぶつかる事になるだろう、しかしその直前に、カトリーヌは鞄を抱えた男の脚に飛びつき、しがみつくつもりでいた。

 脚にしがみついて走る事を妨害出来れば、時間が稼げる。

 時間が稼げれば、人通りの少ない街路ではあっても、その間に誰かが駆けつけてくれるかも知れない。


「どけぇっ! 死にてえのかっ!」


 男達は眼前にまで迫っていた、野太い怒鳴り声は獣の咆哮を思わせた。

 もちろん止まる素振りなど無い。

 凶悪な形相でカトリーヌを睨みつけ、男達は突っ込んで来る。


「!?」


 至近距離となり、カトリーヌは初めて気づいた。

 男達の両腕が、重厚な金属製の義手である事に。

 その野太い首筋にまで、金属製のシャフトが伸びている事に。

 しかも拳頭部分には、鋭角的な打撃用の金属パーツが飛び出している。

 つまり彼らは身体パーツを戦闘用に機械化した、元兵士である可能性が高い。


 カトリーヌは子供の頃に紛争地域で見掛けた、機械化兵団の兵士達を思い出す。

 彼らが装備していた金属製の義手は、一撃で家屋の石壁を突き破り、鉄製の機器を、軽々と握り潰すほどの力を有していた。

 手の甲に、銃弾や炸薬を仕込んでいるとも聞いた。

 

 一気に血の気が引く。

 でも、それでも。

 私がやらなければ。


 脚に飛びつけば。それなら止める事も。

 せめて、エリーゼを守らなければ。

 未だ傍らにいるエリーゼを、巻き込むわけにはいかない。

 意を決したカトリーヌは奥歯を噛み締め、男達の方へ。

 震える足で、一歩踏み出し――。


「お見事です」


 小さな影が、カトリーヌの前方を遮った。

 華奢な身体を包む灰色の修道服。

 ヴェールの下で揺れる、プラチナのロングヘア。

 細い肩越しに、エリーゼはカトリーヌを振り返る。


 ピジョンブラッドの瞳が濡れ、キラキラと美しく煌めいていた。

 口許に浮かぶ微笑は、驚くほどの艶やかさに満ちていた。

 それは、今まで一度も見せた事の無い、妖艶な微笑みだった。


「お任せ下さい――」


 前方に向き直ったエリーゼは、真っ直ぐ男達の方へ歩を進める。

 その両手には、カトリーヌより預かった買い物袋を抱えたままだ。

 気負いも、迷いも、危機感も、一切感じさせない、ごく自然な足取り。

 その正面には、もはや回避不可能な距離にまで達した暴漢二人。

 一気に距離が詰まる。


「エッ……エリーゼッ……!? 危なっ……」


 カトリーヌは手を伸ばし、引き攣れた声を上げる。

 助けなければ……と思う。

 小さなエリーゼの後姿と、殺到する男達の威容。

 その差を客観的に目視したカトリーヌは凍りついた。

 暴走した人食い熊の如き暴漢と、ガラス細工の様な少女。

 結果は火を見るよりも明らかだ。


 激突の直前。

 鞄を抱えた暴漢は肩を怒らせ顎を引き、体当たりの衝撃に備えた。

 巨大な身体を沈め、身体を固めた姿勢は、重厚な装甲車を思わせた。

 もう一人の暴漢に至っては、走り込みつつタイミングを図り、鋼鉄製の拳を振りかぶっていた、すれ違いざまにエリーゼを頭部を殴りつけるつもりなのだ。

 どちらも暴力行為に慣れている、むしろ熟練している様に見えた。

 暴漢達は醜悪な狂気に表情を歪めながら、一気に飛び込んで来た。

 

 次の刹那。

 エリーゼが、暴漢二人に押し潰された――かの様に見えた。

 しかしそうでは無かった。


 圧倒的体格差でエリーゼを弾き飛ばそうと、身体を沈め込んだ暴漢のタックルは、あろう事か空振りに終わり、正確にタイミングを図った上で加撃を行ったもう一人の暴漢は、岩をも砕く鋼鉄の拳で、何も無い空中を虚しく薙いだ。


 男達にはエリーゼの姿が、消えた様に感じられたかも知れない。

 しかし正面から見据えるカトリーヌは、エリーゼの動きを捉える事が出来た。


 巨大な暴漢二人の間で、エリーゼの小さな身体は、舞い上がっていた。

 脚を小さく折りたたみ、身体を捻り、背中を丸めつつ天地逆となる程の勢いで、跳ね上がったのだ。

 高さは男達の肩口であり、位置は顔の真横であった。


 逆さのまま宙に在るエリーゼの撓めた脚は、閃光の如き勢いで左右に弾けた。

 重い風切り音と共に閃いた両脚は、鞭の様にしなり、半ば霞んでいた。

 その爪先が、男達の顎先を微かに掠めたかどうか。

 打撃音は無かった。

 しかし唐突に二人の男達は、糸が切れた人形の様に姿勢を崩した。


 白目を剥いた状態で、首を傾がせ、身体を傾がせ、カトリーヌの両脇を崩れた姿勢で力無く走り抜ける。

 やがて石畳の上へ火花を散らしながら頭から突っ伏し、倒れ込んだ。

 その後方――カトリーヌの目前では、エリーゼが音も無く着地していた。


「エリーゼ……」


 カトリーヌは、やっとの思いでエリーゼの名を呼ぶ。

 身体が小さく震え、足が思う様に動かない。

 ゆっくりと振り返ったエリーゼは、普段と何ひとつ変わらない立ち姿だった。

 両手には、カトリーヌより預かった買い物袋を抱えたままで。

 いつも通りの穏やかな口調で言葉を紡いだ。


「シスター・カトリーヌ、倒れたご婦人の救護をお願い出来ますか? 私は先のアレらから鞄を回収して参ります」


「えっ? う、うん、解った、でも大丈夫? それにさっきの二人は……」


「頚椎捻挫と、脳震盪で失神しています。軽傷ですが、しばらく動きません」


 静かにそう告げつつ、エリーゼはカトリーヌの傍らを通り過ぎると、卒倒したまま動かない暴漢へと近づく。

 カトリーヌは未だ混乱していたが、道端へ倒れ伏す老婦人の姿に、己のすべき事を思い出し、すぐに駆け寄る。

 夕暮れ時の一般居住区で、突如発生した一連の事件に、通りを行き交う通行人達も足を止め、遠巻きに集まり始めていた。

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