第30話 彼と、彼女


 やがて涙を止めたアルバートが、力なく微笑んだ。

 その顔が、まるで憑物が落ちたように、とてもすっきりとしていて。


「ごめんね、ユーイン。男の涙なんて見苦しかったよね」


 ユーインはこのとき初めて、アルバートに自分の名前を呼ばれた気がした。

 今までにも呼ばれたことはあったけれど――もっと明確に、何の混じり気もなく、初めて。


「いえ……そんなことはないです」

「そう? それならいいんだけど」


 アルバートが淡く微笑む。ユーインは眩しいものでも見るように目を細めた。


 ――ああ、よかった。


 ユーインの中のだれかが、心底安堵したように呟く。

 呟いて、それが――、満足そうに溶け始めた。

 まるで自分ユーインと同化するように、じわりと混ざり、存在が曖昧になっていく。

 そんな感覚に、ユーインは物寂しさを覚えた。

 無意識に胸をぎゅっと押さえると、それに反応したように彼女が悲しげな笑みを浮かべる。


 ――ありがとうございました、ユーイン。これでやっと……


 彼女が消えてしまう。だからだろうか。心が勝手に焦燥を覚える。

 そんな悲しい顔で消えないでくれと、思わず引き止めようとした直前。


「でもね、ユーイン。やっぱりそれでも、にとってあれは、恋だったと思うんだ」


 アルバートが、誰かを慈しむようにまぶたを伏せた。


「だってそれもまた、恋の一面ではあるんでしょ?」


 そのとき、今にも消えてしまいそうだった彼女が。

 悲しげに眉尻を下げていた彼女が。

 とても……とても嬉しそうに、泣きながら笑った。


「だからエリクは、ちゃんと君が好きだったよ」


 今度こそ、ユーインの瞳から涙が零れ落ちる。

 アルバートがぎょっとしているけれど、ユーイン自身もどうして涙が出るのかよくわからなかった。


 彼女はどこにもいない。

 最後、心残りが全て消えたとでも言うように、満足そうにユーインの中へ溶けてしまった。


(そうだ……彼女は消えたんじゃない。ここに、私の中に、ちゃんといる)


 知らない女性のはずなのに、どこか懐かしい人。

 他人のはずなのに、他人に思えないくらい、不思議と親近感の湧く人。

 形はくなってしまったけれど、もう一人の自分みたいな存在の彼女は、ユーインと一緒になっただけなのだ。

 完全に、消えたわけじゃない。


「……私のほうこそ、突然失礼いたしました」


 涙を拭うが、ユーインの目は赤く腫れていた。

 そしてアルバートの瞳もまた、はっきりと充血している。

 互いにそれに気づくと、二人はどちらからともなく、小さく笑い合ったのだった。





 冷静になったユーインは、当初の目的をアルバートに伝えた。

 あれから毎日アズラクがアイリーンを訪ねて来ること。

 婚約は間近だということ。

 それどころか、アズラクが結婚を早めてほしいとアイリーンに迫ったこと。

 さらに、もう一つ。


「殿下の生誕パーティーで、ファルシュの王子は殿下に手を出されました」

「……は?」


 これにはアルバートも目が点になる。

 手を出した? それはつまり?


「私が見たわけではありません。殿下に影のようについているハロルドからの情報です。ファルシュの王子が邪魔ではっきりと確認できてはいませんが、王子が、殿下に、キスをなさったと」


 アルバートは、ユーインが何を言ったのか、最初はうまく飲み込めなかった。

 けれど十回くらい飲み込んで、ようやくその意味に辿り着く。


「アイ、リーンは」


 意図せず声が掠れた。

 まただ。また、腹の奥底から、黒くて醜いものが蠢き出す。


「そのとき、アイリーンは、どんな……」


 今ならこの感情が、正しく嫉妬だと理解できる。


「それはご自身でお確かめになってください。私が言えるのは――助けるのは、ここまでです」


 まるで、あとは自分の力でどうにかしろと言うように。ユーインが口を閉ざした。

 それもそうだろう。

 自分のことなのに、何から何まで助けてもらうなんて情けないにもほどがある。


「アイリーンは、部屋?」

「はい」

「アズラク殿下も?」

「はい」

「……そう」


 アルバートの額に青筋が浮かんだ。

 今まで彼女の許に通っていたのは、自分だった。

 そしてこれから先も彼女の許に通うのは、自分だけのはずだったのに。


「少しフライングになるけど仕方ない。このままアイリーンを奪われるよりは、マシだ」


 アルバートはすぐに部屋を出ると、アイリーンの私室へと足を急がせる。

 こういうとき、無駄に広い城が恨めしくて仕方ない。

 政務棟と王族の居住区が離れていることも、アルバートの心を大いに焦らせた。

 今この間にも他の男が彼女の部屋にいると思うと、次第に大股になっていく。


 そうして久しぶりにアイリーンの部屋に足を踏み入れたとき、アルバートの視界に、抱き合う彼女とアズラクがいた。



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