第10章 幸せは逃げも隠れもしない
第29話 恋は何もの
生誕パーティーが終わった後のアイリーンは、とにかく舞い込む縁談話を穏便に断ることに奮闘していた。
王家の血を入れたい家、出世を目論む家。
様々な思惑はあれど、純粋にアイリーンを想って求婚してくれた男性も、少なからずいた。
そういう人はまめに手紙を書いて送ってくるので、なんとなくわかる。
アイリーンは、そういう相手に対しては、ことさら丁寧に返事を
「もっと一刀両断してやればいいのに」
傍らでそう言ったのは、アズラクだ。
彼の国は遠いため、もともとしばらくはラドニア王国に逗留する予定だった。
その逗留先が王城であるのも、もちろん予定どおりだ。なにせ彼は他国の第二王子、王族なのだから。
けれど、こんなにも頻繁にアイリーンを訪ねてくるのは、想定外である。
毎日来ている気がするのだが、暇なのだろうか。
「そんなことしないわよ。相手に想いを伝えることがどんなに凄いことか、私は知ってるもの。無下にはできないわ」
「ふぅん。お優しいことで」
アズラクは理解できないと肩を竦めると、我が物顔で部屋の中を見学し始めた。慣れた侍女たちは何も言わない。
しかし一人だけ、アズラクの行動をいつも不機嫌そうに見つめている人物がいる――ユーインだ。
「今日も面白いくらい歓迎されてないな、俺」
それにはアズラクも気づいていて、笑いを噛み殺しながら言う。
厄介なことに、彼はこの状況を楽しんでもいた。
「本当に全く懐いてくれないんだな、ユーイン。少しくらいその眉間のしわを減らしてもいいんだぞ?」
「ユーイン、言いたいことは言っていいわよ。私が許可するわ」
生真面目な彼は、アイリーンの許しがない限り口を開こうとはしない。
けれど腹芸もできないから、アイリーンは毎回そう許可を出していた。
「ありがとうございます、殿下。では、お言葉に甘えまして。――気安く殿下に近づかないでいただきたい」
「ははっ。相変わらずそればっかりだな、おまえは」
アズラクがユーインの髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。
もちろん彼は、ユーインがエミリーの生まれ変わりだと気づいている。不思議なもので、やはり彼も出会ってすぐにユーインの正体を見破った。
そして最初こそエミリーが男に転生していることを驚いてはいたが、彼はすぐに順応した。
今では、アズラク曰く、生意気なユーインを気に入っているらしい。
「離せっ。だいたいあなたは殿下の正式な婚約者じゃないでしょう!」
「時間の問題だと思うが」
「関係ありません。私は認めません」
ユーインが、アズラクではなく、アイリーンを見て告げる。
「私は、認めませんよ、殿下。認められません。殿下が望んでもいない相手と添い遂げようとすることを、どうして私が認めなければならないんですか。私はあなたに幸せになってほしいのに。あなただけは、今度こそ幸せにならなければならないのに! たとえ王が、神が、あなたが認めようと、私は絶対に認めません! だってそうでしょう。あなたの隣はずっと、ずっとあの人のっ――」
ハッと、そこで正気を取り戻したようにユーインが押し黙る。
その顔が一瞬、ほんの一瞬だけ泣きそうに歪んだのは、おそらくアイリーンの気のせいではない。
彼が唇を噛んでいる。
「申し訳ございません、殿下。少し、熱くなりすぎたようです」
「ユーイン……」
「私にも、よくわからないんです。でもやっぱり、あなたには、どうしても幸せになってほしくて……。今度は私が、私が、あなたのために――」
ユーインの瞳が、ここではない遠いところを見つめている。
それがどこなのか、アイリーンにはわからない。わからないけれど、一瞬、そこにエミリーが重なって見えた。
そんなこと、もうとっくに無かったはずなのに。
「ユーイン、あなたまさか……」
まさか、前世の記憶を思い出したのだろうか。
なんとなくそんな気がしたが、焦点をアイリーンに合わせた彼は、もういつもの彼に戻っていた。
そこにエミリーは存在しない。
「殿下、大変勝手なことを申し上げますが、頭を冷やす許可をいただければと存じます」
少しの
敬礼した彼が足早に部屋を出て行こうとする。その背中に向かって、アイリーンは「ありがとう」と言葉を送った。
「心配してくれてありがとう、ユーイン。私、あなたが大好きよ。あなたを騎士に迎えられて、本当に良かったと思ってるの。だから――――ごめんね」
最後のひと言を、彼がどう受け取ったかはわからない。
正しく伝わっていないかもしれない。
それでもアイリーンは、それ以上何も言わず、黙って彼の背中を見送った。
*
部屋を出たユーインは、真面目な彼らしくなく、城の廊下を早足で歩いていた。
目頭が熱い。どうしてかわからない。
でも、自分でもおかしいと思うくらい、ユーインはどうしても許せなかったのだ。
アイリーンが――彼女が、彼女の隣にアズラクを置いている現状を。
だって違うではないか。彼女の隣はアズラクではない。他の男でも、女でもない。
もちろんそれは、自分でもなく――
(あの場所は、あの人だけのものなのに)
そう思って、ユーインはすぐに首を振る。
あの人とは誰だ。誰のことを考えた。わからない。記憶に濃いモヤがかかっている。
それでもやっぱり、ユーインは思ってしまう。
アイリーンの隣には、彼女を幸せにできる者でないと嫌なのだと。
そしてそれができるのは。
「アルバート・グレイ殿!」
ユーインは、足早に向かった先で、怒りを込めてその名を呼んだ。
そこが彼に与えられている執務室だとは知っている。知っていて、乱暴に扉を開けた。
そして、ユーインにとっては彼こそが、アイリーンの隣にふさわしいと思える、唯一の男だった。
まるで自分がかき混ぜてしまったパズルをやり直すように、ユーインは、自分こそがこの役目をやらなければという使命を感じている。
自分こそが、今度こそ、パズルを元に戻さなければと。
「見損なったぞ、アルバート・グレイ殿!」
「ユーイン? え、いきなりどうしたの?」
「どうしたのじゃない! 貴殿は何をやっているんだ!」
「ええ? 仕事だけど……」
それはそうだろう。真面目なのは良いことだ。
しかし、今はそれどころじゃない。
この危機感の無さに、ユーインはイラッとした。
「それは後です。貴殿が知らないはずがない。このまま王女殿下が嫁ぐのを、黙って見送るつもりか!?」
「!」
その瞬間変わったアルバートの表情を、ユーインは見逃さない。
胸元を掴む勢いで、執務机を叩いて、彼に迫った。
「私は、非常に不本意だが、殿下の隣には貴殿しかいないと思っている。貴殿の隣にも、殿下しかいないと思っている。理由は知らない。でも本気でそう思っているんだ。今も、昔も、あなたたちはずっと二人一緒だったはずでしょう!?」
ユーインは、不思議な現象に囚われていた。
口が勝手に動くのだ。自分で話しているつもりなのに、たまに、口が勝手に動いている。
「私はそれが羨ましかった! あの人をどんなに想おうと、尊敬しようと、あなたたちの絆には勝てないといつも思っていた! 互いに互いを半身のように思っているくせに、本人たちのほうがそれに気づいてないなんてどうかしてる! なぜ気づかない。なぜ離れようとする。なぜ他の存在をみすみす許す!? 私が、どれだけ想っても、あの人は優しい視線しかくれなかった。そんなのは本当の恋じゃないって、ずっと、言ってやりたかった……っ」
そう、恋じゃない。
それは、恋じゃないと。
ただの、尊敬の念なのだと。
(私は、なぜ、こんなことを……)
わからない。自分で自分がわからない。
でも言わなければと思った。言わなければいけないと。
自分のせいで狂わせてしまった運命を、元に戻してあげなければと。
ずっと、ずっとずっと、思っていた気がする。
それこそ気の遠くなるような、遥か昔から。
「優しいのに、恋じゃ、ないの……?」
そのとき、アルバートがぽつりとこぼした。
彼は迷子の子供のような顔で、ユーインを見つめている。
「俺はね、逆だったよ。優しい想いこそが、恋なんだと思ってた。だって恋って、相手を慈しむものだろう? 相手を愛しむものだろう? そんな恋に、ドロドロとした、真っ黒で醜い
君はそう思わないの? と言外に訊ねられているような気がして。
ユーインは、ユーインの中の誰かは、「思わない」ときっぱり告げる。
「その感情は、恋の一面に過ぎない。少なくとも私はそう思っている。恋は酷く身勝手で、汚くもあって、焦がれてやまないもの。私は――」
――〝私〟も。
「そう、思ってます」
「……そう……そっか。それが、恋なんだ……」
くしゃり。アルバートの顔が歪む。
その優しい緑の瞳から流れる涙を、ユーインは綺麗だと思った。
「ごめん、ごめんね、エミリー……っ」
私はユーインだと、なぜか今はそれが言えない。
言いたくないと何かが
私のほうこそごめんなさいと、頭の中で誰かの謝る声がした。
私のほうこそ、知っていたのに黙っていて、ごめんなさいと。
アルバートは謝り続けている。
ユーインは、きっとその謝罪は、この謎の声に向けられたものだろうと誰に言われるでもなく理解した。してしまった。
つられて泣きそうになって、乱暴に目を擦る。
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