第26話 晴れる霧
一瞬アルバートの可能性を考えたが、仕事中の彼がこんなところにいるはずがない。アイリーンが歩いている廊下は、そのまま王族の居住区に繋がるからだ。
だから、だんだんと姿がはっきりしてきた人物を見て、アイリーンは乱暴にユーインを空き部屋に押し込んだ。
ユーインだけでなく、他の騎士たちもぎょっとしている。
が、それに構うことなく、アイリーンは一番近くにいた別の騎士に、小声で指示を出した。「ユーインにそこから出るなと伝えて」
「これはこれは、王女殿下ではありませんか。お久しぶりでございます」
「お久しぶりね、ヴァレンタイン伯爵。どうしてあなたがそちらからやってくるのかしら?」
「いえね、殿下がついに婚約者を決めたと小耳に挟みましてね。しかしそんな話は社交界に欠片だって流れていない。これは事の真相を確かめなければと、ちょうど殿下を訪ねたところだったんですよ」
「そうだったの。でもそういうときは普通、淑女の部屋を直接訪ねるものではないはずよ?」
「それはまあ、手っ取り早さを選択したといいましょうか」
「妹が未来の王太子妃だからといって、あなたまで優遇されるのは困ったものね」
「仕方ありません。あなたと正規の手続きを踏んでお会いするには、時間がかかり過ぎるので」
「私は会いたくないから構わなかったのだけど」
「相変わらずつれないですねぇ」
アイリーンの拒絶もなんのその。
全くこたえていない姿が癇に障る。
「それにしても、今そちらの部屋に誰かを押し込めませんでしたか?」
「ええ、私のかわいい侍女をね。あなたに目をつけられては困るもの」
「それは心外です。私だって誰彼構わず口説いているわけではないのですよ? 今はあなたを口説こうと必死なのに、今度はあなたの守りが固くなってしまった。妹をちょっとおど……説得して、ようやく情報を掴んだと思ったら、あなたが結婚するという。酷い話です」
いや酷いのはどちらだ、と突っ込みたくなった。今、目の前の男は、自分の妹を脅してと言おうとしなかったか。
兄王子の
しかしなるほど、情報源はどうやらそこだったらしい。
オーガストの異常さを知っているアイリーンは、アナベルを責めようとは思わなかった。
「守りが固くなるのは当然でしょ? あなたに狙われるかもしれないと言ったら、お父様もお兄様も、すぐに護衛を増やしてくれたわ。それどころか、あなたの行動を逐一確認させているらしいわよ」
「ええ、そうですね。おかげでエミリー様探しも難しくなって……。あなたに手を出すべきではなかったと、後悔しましたよ」
その言葉を聞いて、アイリーンは半目になる。当然だ。後悔してもらわないとこちらの面目が立たない。
なにせ。
「あのねぇ、私を誰だと思ってるの? 今の私は一国の王女よ。リジーのままではないの。王女を口説くなら、それ相応の覚悟をしてもらわないと」
そう、アイリーンは王女だ。
リジーのときと違って、おいそれと手を出していい
ましてやオーガストは、未婚のまま何人もの子供を持つ男。
そんな男を、誰が王女に近づけようか。
「そういうことだから、私のこともエミリー様のことも、もちろんアルバートのことも諦めてちょうだい」
「無理です。特に、エミリー様については」
「……彼女が転生しているかもわからないのに?」
「そんなことはどうでもいい。あなた方と違って、私にはエミリー様しかいないのです。あの方こそが私の神なのです」
「神、ね」
確かに、オーガストがエミリーを想う気持ちは、恋い慕うもの以外に崇拝の念もあるように感じることがよくあった。
彼がエミリーを自分の神だと表現したのも、あながち間違いではないだろう。
その彼女が、転生しているかもわからないのに。
どうしてオーガストは、ここまで迷いのない想いを保てるのか。
「私は、ある意味あなたが羨ましいわ」
オーガストが首を傾げる。
「あなたの想いは歪んでいるけれど、そこまで迷いなく想えるのは、素直に尊敬するわ。だってエミリー様はエリクが好きなのよ? 叶わないとわかっているのに、どうしてそこまで想えるの?」
――諦めないでいられるの?
それが、アイリーンの本音だった。
アイリーンの弱さでもある。
自分の弱い部分をこの男に晒したくはなかったけれど、その答えを持っているのも、この男だけなのだ。
好きな相手に恋人がいる。
それは、二人の共通しているところだから。
「珍しいですね? あなたが私にそんなことを訊くなんて。エリクのことは諦めましたか?」
痛いところを突かれて、アイリーンは奥歯を噛み締めた。
けれど、表情には出さない。
「まあ、あなたがエリクを諦めようがどうしようが、私にはどうでもいいですが。せっかくのあなたからの質問です。お答えするなら、愚問です、というところでしょうか」
「愚問?」
「ええ。なぜなら私は、叶えるためにエミリー様を好きになったわけではありませんので」
「!」
ガツンッ、と頭を殴られた気分だった。
だって、そんなふうに考えたことなんて、一度もなかったから。
――〝叶えるために、エミリー様を好きになったわけではありません〟
なるほど。確かに。一理ある。
アイリーンも、叶えたくてアルバートを好きになったわけじゃない。
いつのまにか好きになっていた。
いつのまにか惹かれていた。
それは、エリクではなく、アルバートに。
これは愉快だ。
「ふ、ふふふ。そう、そうね。びっくりだわ」
霧が晴れるとは、まさにこのこと。
あっけらかんと言い放ったオーガストを見て、自分は何を小難しく考えていたのだろうと思った。
アルバートが好き。
ただそれだけが、アイリーンの真実だったのに。
「ちょっと、さすがに笑い過ぎでは?」
突然笑い出したアイリーンに、オーガストは不思議そうに顔を歪める。
控えている騎士たちも、どこか困惑した表情で主を見守っていた。
「ごめんなさい。悪い意味ではないのよ。ただまさか、あなたからそんなまともな答えが返ってくるとは思わなくて。少し認識を改めようかしら」
「おや、それはいい。私の復讐に協力してくれるのですか?」
「するわけないでしょ」
それは一刀両断させてもらう。
誰がアルバートへの復讐に加担するものか。
「やっぱり認識を改めるのはやめるわ」
「それは残念」
「でも」
アイリーンはここで初めて、オーガストに向けて対外用ではない笑みを向けた。
「少しだけ見直したわ。あなたの歪な想いも、たまには人を救うのね」
「……は?」
言われた意味がわからないオーガストは、ぽかんと間抜けな顔をする。
そんな彼に構わず、アイリーンは騎士の一人に目配せした。心得た騎士は、呆然とするオーガストに帰り道を促す。
されるがまま去っていくオーガストの背中を見送って、アイリーンは空き部屋の扉を開けた。
「ごめんなさいね、ユーイン。もう出てきて大丈夫よ」
「殿下……いったい何だったんですか?」
「ふふ、秘密よ」
癪だけれど、オーガストのおかげで、アイリーンの暗かった心にわずかな光が灯った。
いつのまにか雲の切れ間から、太陽の光が差し込んでいる。どうやら雨も雪も降らなそうだ。
明るくなった空を見て、訳もなく気分も上がる。
いまだに状況を理解できていないユーインの頭を、アイリーンは意味もなくくしゃりと撫でたのだった。
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