第9章 騙し騙され何を得る

第23話 王女の帰国


 アイリーンがファルシュから帰国したのは、ちょうど昨日のことだ。

 初めての他国訪問ということと、数週間にわたる馬車旅だったということで、アイリーンは帰ってすぐ両親に帰国の報告を済ませると、ベッドへとダイブした。

 そんな彼女を半ば連れ去るように風呂に入れ、寝支度を済ませてくれたのは見慣れた侍女たちだ。


 というわけで、アイリーンがユーインに会ったのは、その翌日のことだった。


 朝食を終えてすぐユーインを呼んだアイリーンは、自分がいなかった間の国内について訊ねようと思っていたのだ。

 けれどその前に、ユーインが会って早々頭を下げてきた。


「大変申し訳ございません、殿下!」

「え?」


 なぜ謝られるのだろう。そう思って困惑した。

 ちっとも心当たりがない。


「ユーイン、どうしたの? 私がいない間に何かあったの?」


 そう言うと、ユーインが目に見えて反応した。どうやら何かあったらしい。

 何があったのか訊きたいのに、ユーインは顔面蒼白で謝ってばかりだった。


「本当に申し訳ございません。私は殿下の騎士失格です。これでは殿下が私を置いていくのも納得できます」

「ちょっと落ち着いて。あなたが私の騎士失格だなんて、そんなことないわ。それとも誰かにそう言われたの? どこの誰かしら。ちょっと痛い目見せてくるから教えてくれる?」


 アイリーンとしては、自分が前世でエミリーに仕えていた頃の名残が出ただけだった。

 しかしユーインは恐縮し、余計に顔色を悪くさせた。


「違います。本当に、私がミスを……」


 そのとき、アイリーン付きの侍女が足早にやってきた。アイリーンの耳元で何やら呟くと、アイリーンの顔が一瞬だけ綻ぶ。

 その変化を見逃さなかったユーインは、誰がこの部屋に来たのか勘づき、さらにまた血の気を引かせた。


「やあ、アイリーン。久しぶりだね」


 案の定、朝から彼女を訪ねてきたのは、アルバート・グレイその人である。ユーインが今最も恐れている人物だ。


「ええ、久しぶりねアルバート。元気にしてた? また倒れてないといいのだけど」

「残念ながら、一度ね」


 苦笑するアルバートに、いつもと変わったところは見受けられない。いつもの、あのへらりとした笑顔がそこにある。

 けれど、ユーインはアルバートを直視できず、背中に冷や汗を流しながらこの訪問が無事に終わることを祈っていた。


「一度って、倒れたの?」

「やっぱり君がいないと駄目みたいだ」

「私がいても倒れるでしょ、アルバートは。そんなことより、もう体調は大丈夫なの?」

「うん、もう平気だよ。君が帰ってくるひと月くらい前から、それどころじゃなくなったから」

「?」


 今、この部屋には、アイリーンとアルバート、そして騎士のユーインとハロルドと、侍女が数名しかいなかった。

 だから、アルバートの薄ら寒い笑みに気づいているのは、きっとユーインだけだろう。


「ねぇ、アイリーン? 俺、こんなことを聞いたんだけど、とても馬鹿馬鹿しくて笑っちゃったんだ。聞いてくれる?」

「まあ、どんなこと?」


 二人が座るテーブルに、侍女が淹れ立ての紅茶を置く。

 相槌を打ちながら、アイリーンがそのカップに手をかけた。


「うん、それがね、アイリーンの今回のファルシュ訪問が、実は男漁りが目的だったと聞いてね?」


 ぴたっ。

 アイリーンのカップを持つ手が止まった。


「とても馬鹿馬鹿しいと思うでしょ? だって、アイリーンがそんな遠い国に嫁ぐはず、ないもんね?」


 どく、どく。アイリーンの心臓が忙しなく脈打っている。

 なぜ、とそんなことばかり内心で繰り返した。


(なんで、どうして? アルバートには言ってないはずなのに)


 それでも小さく息を吐いて、動揺をなんとか外に逃がすと。


「ふふ、そうね。男漁りだなんて酷いわ。だってそんなことしてないもの」


 精一杯の仮面をつけた。


「そう。じゃあ、婚約は結ばずに終わった?」

「!」


 カップがカチャッと大きな音を立てる。


「……結んできたんだね」

「ア、アルバート、なんでそれを」

「そんなことより、本気なの?」

「本気って、何が?」


 声が震える。

 なぜって、アルバートが、どうしてか目をつり上げていたからだ。


「君は本気で、俺から離れるの? 離れられるの?」

「アルバート……?」


 彼の様子がおかしい。いつもより冷静さが欠けている。

 でもアイリーンには、その理由がわからなかった。


「だってそうでしょ? 俺たちはずっと一緒だった。どんなに辛いことも大変なことも、二人で乗り越えてきたんだ。俺はこの二ヶ月間、君がいなくて物足りなかったよ。つまらなかった。でも君は違ったの? 君にとって俺は、大事なことも教えてくれないような、その程度の存在だった?」

「違うわ! 違う、そうじゃないの。私にとってもアルバートは、とても大切な存在よ」

「じゃあどうして教えてくれなかったの?」

「まだ正式なものじゃないからよ。決まってもいないのに教えて、ぬか喜びさせたくないでしょう?」

「喜ぶ? 俺が?」


 聞き返されて、アイリーンは戸惑いながらも首をこくりと動かした。


 アルバートならきっと喜ぶだろう。親友に婚約者ができるという、めでたい報告には。

 事実、前世の騎士仲間たちが結婚するという報告を受けたとき、彼は我が事のように喜び祝っていた。


「アイリーンは、喜んでほしかった?」

「それは……もちろんよ」


 心にもないことを言う。

 本当は喜んでほしくなんてない。

 あのときのように盛大に祝われたら、アイリーンはしばらく立ち直れないだろう。

 でも、いつかは立ち直らないといけないのだ。

 それが早いか遅いかなら、さっさとその通過儀礼を終わらせてしまいたかった。


「そう……。でもごめんね。自分でも驚いてるんだけど、残念ながら、全然喜べないんだ」

「え?」

「ちっとも嬉しくない。アイリーンが結婚? しかも外国で? 俺の知らない男と? 正直、嬉しくないどころか面白くない」

「あの、アルバート?」

「それで、どうだった? ファルシュの第二王子は」


 そこまで知っているのかと、アイリーンは誤魔化せないことを悟った。

 なぜアルバートがそんなことを言うのかは謎だったけれど、奇しくもファルシュの第二王子の話題になったので、アイリーンは深く考えることを放棄した。

 それよりも、アルバートに伝えたいことがあったからだ。


「それが実は、ルークだったのよ」

「……うん?」

「だから、ルーク。覚えてる? 前世むかし、私たちの同僚だった、あの寡黙なルークよ」

「なんだって?」


 さすがに意表を突かれたのか、アルバートが信じられないと目を瞠った。

 それまで張り詰めていた空気がなくなって、アイリーンは緊張から解放される。そのまま続けた。


「懐かしいでしょ? しかもね、彼にも記憶があったの。今じゃ無口無表情ってわけでもないけど、根本はやっぱり変わってなかったわ。アルバートのことを話したら『元気そうでよかった』って言ってたわよ」

「アイリーン、ちょっと待って。急に話が変わってついていけてない。え? 誰がルークだって?」

「だから、ファルシュ王国第二王子、アズラク殿下がよ」


 数秒の沈黙の後、


「本当なのそれ!?」

「本当だって何度も言ってるじゃない」

「だって、あのルークが? しかも、俺たち以外にも記憶持ちがいたなんて」


 実はオーガストもそうなのだが、いまだにアルバートはそれを知らない。

 ので、アイリーンは黙っていることにした。


「そうなの。すごいでしょ? 私もびっくりしちゃったわ」

「俺もびっくりだよ。ルークは元気だった?」


 途中から空気が変わった二人に、周囲は少しだけ狼狽えたが、いち使用人が主の会話を邪魔するわけにはいかない。そう考え、彼らは努めて部屋の置物と化した。

 先ほどの険悪ムードもどこへやら、二人は思い出話に花を咲かせる。


「俺、ルークの無表情なところが結構気に入ってたんだけど」

「今じゃ普通に動いてたわよ、表情筋」

「普段あんまり動かないからこそ、たまにそれが緩むとめちゃくちゃ嬉しかったのに。残念だなぁ」

「必死に笑わせようとしてたものね」

「それはアイリーンもでしょ? 結果、屋敷の屋根から落ちそうになって、慌てて俺が助けたんだよね」

「……あら、そんなことあったかしら」

「あったよ」

「アルバートの妄想じゃなくて?」

「じゃあそのときの状況を事細かに教えてあげようか?」

「ごめんなさい嘘よ、覚えてるわ」

「うん、よかった」


 こういうとき、無駄に微笑んでくるアルバートはちょっとだけ怖い。と思うアイリーンである。

 触らぬ何とかに祟りなし、というやつだ。


「でもそっかぁ、そのルークとアイリーンが婚約ねぇ……」

「そうなのよ。だから何も問題ないでしょう?」


 この和やかな流れに乗れば、きっとアルバートも笑顔で祝福してくれることだろう。胸が小さく痛むだなんて、そんなことは気づかないふりだ。

 アイリーンは努めて笑みを作り、アルバートもまた、それに応えるようににっこりと笑みを貼りつけている。


(……でもなぜかしら。その微笑みから威圧を感じるんだけど)


 たらり。額から汗が流れていく。


「アイリーンはおかしなことを言うね」



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