第16話 王女の婚約者
アイリーンに婚約者がいなかったのは、婚約破棄された兄王子を気遣ってのものだった。
じゃあ、その兄に、婚約者が見つかったら?
答えは簡単だ。
「ええ、わかってますわお兄様。おそらくお父様なんかは、もうある程度の目星をつけているのでしょう?」
「そのようだ。だが安心しなさい。ちゃんとおまえにふさわしい相手を選ぶよう、私からもお願いしておいたから」
「ふふ、ありがとうございます」
さすがシスコン。そこは抜かりないらしい。
嬉しいけれど、嬉しくない。
待ち望んだ死神が、まさかこんなに早く訪れるとは。
「じゃあ、私たちは他にも挨拶があるから」
「ええ。お二人の幸せを願っておりますわ」
なんとか笑顔を繕う。
二人を見送ると、我知らずため息が出た。
「婚約者……?」
隣から、唖然と呟く声が届いた。
送り主であろう、自分よりも背の高い彼を振り仰ぐ。
「婚約者って、アイリーンの?」
「そうね」
「でもそんな話、全然聞いてないんだけど」
「だってまだ決まってすらいないもの」
「そうじゃなくて。アンセルムの婚約者が見つかったら、次はアイリーンの番って話だよ。陛下がもう目星をつけてる? それってつまり、相手の家には内々に話がいってるってことだよね?」
「そうなるかしら」
兄と同じく抜かりのない父のことだ。世間話程度に打診して、相手の反応を窺うことくらいはしているだろう。
「それが、聞いてない」
「?」
つまりどういうことか。
アイリーンの疑問が伝わったのか、アルバートが続ける。
「だから、俺の家にそんな話は来ていない」
どこか苛立ちの孕んだ声だった。
「それは当然よ。私が外してってお願いしたんだから」
「え?」
「だってそうでしょう? アルバートは――エリクは、エミリー様のものだから」
自分で言ったくせに、自分の言葉で心が傷つく。
でも、アルバートだって言っていた。今世こそはエミリーと結婚するのだと。
それを聞いたアイリーンは、その日のうちに父王にお願いしていたのだ。「政略的意味合い以外では、アルバートと婚約させないでほしいのです」
「っ、じゃあ君は、誰と婚約――結婚するの?」
「それはまだわからないわ。きっと明日にでも、お父様から候補者の方について聞くことになるとは思うけど」
「そう……そっか。アイリーンが結婚か……。いや、ごめん。わかってはいたんだけど、君はずっとそばにいてくれる気がして……って違う、何言ってるんだろ俺。本当にごめん、なんでか少し混乱してて。ちょっと頭を冷やしてくるよ」
そう言うと、アルバートは会場の外へと出て行ってしまった。
その背中を見つめながら、アイリーンは胸元でぎゅっと手を握る。
心臓がズキズキと痛い。
アイリーンだって、心の痛みを無視できるなら、いつまでもアルバートのそばにいたかった。彼と一緒に笑い合っていたかった。
けれど、もし。
もし彼が、エミリーを見つけてしまったら。
最初はその恐怖から、彼と離れようとした。
ユーインが
他の
いつかは必ず彼の心も欲しくなる。そのときに、嫉妬に駆られた醜い自分を、アルバートにだけは見せたくなかったのだ。
ようは逃げたのである。
もう、傷つくのは疲れたから。
「やっぱり、他国かしらね」
自嘲めいた笑みをこぼすと、アイリーンはアルバートとは反対側へと歩き出した。
パーティーが終わり、翌日。
予想どおり、アイリーンは父王に呼び出されていた。
「楽にしなさい、アイリーン。今日は王としてではなく、父としてそなたを呼んだのだから」
「はい、お父様」
言葉どおり、アイリーンが呼ばれたのは国王の執務室ではなく、父の私室だった。本当は母も同席する予定だったらしいが、朝から体調を崩している。
「そなたも薄々感づいておろう。今日呼び出したのは、他でもない、そなたの婚約者についてだ」
「ええ、心得ておりますわ」
「そなたは、誰か
意外な質問に、一瞬反応が遅れる。
「……いいえ、おりません。私は王女として、お父様のお決めになった方の許へ嫁ぐつもりですから」
一国の王女としては完璧な回答だ。
しかし、年頃の娘としては、なんとも悲しい答えだった。
父が寂しそうに笑う。
「そなたは本当に優秀な王女だ。妹姫と違って、浮いた話の一つもない。わがままも言わない。だからこそ、そなたが初めて余に言ったわがままは、叶えてやりたいと思った。――本当にいいのだな? オルドリッジ侯爵の息子を、候補から外して」
父の目が訊いている。「そなたは彼を好いておるのだろう?」
でも、アイリーンがその問いに肯定を示すことはない。どれだけ心が泣き叫んでも、アルバートが好きだとは、愛してさえいるのだとは、絶対に口にしないと決めている。
この恋が叶わないのなら、せめてアルバートには、綺麗なままの自分を覚えておいてほしかった。
嫉妬に狂う醜い女の部分なんて、大好きな彼には知られたくないから。
(ごめんなさい、お父様。私はあなたが期待するほど、強い人間にはなれなかった)
本当は、こんなわがまますら、許してもらえないかもしれなかったのだ。
それを叶えてくれるという父には、感謝してもしきれない。
「はい、外してくださいませ。ずっと兄のように慕ってきたのですもの。今さら異性には見られないですわ」
自分でついた嘘に、胸が苦しくなる。
これでもう、後戻りはできない。
これでいい。これがいい。
アイリーンのためにも。アルバートのためにも。
「わかった。では、そのように取り計らおう。実はすでにいくつか目星をつけている。今は平和な時代だ。昔よりも政略結婚の必要性は薄い。この中から、そなたの気に入った者を選ぶと良い」
父が手で合図をすると、侍従が釣書をテーブルに並べていく。
候補は五人いた。
そのうち二人は、幼少の頃にも名のあがった国内貴族。アイリーンの視線は二人を素通りした。
次に隣国の第三王子。
年はアイリーンより下になるが、彼とは社交界で顔見知りになっている。だからこそ、彼はアイリーンとアルバートの仲の良さも知っている。
三人目も目を滑らせ、四人目を視界に入れる。
次は三人目と反対側のお隣から、公爵子息がエントリーしていた。
特に不可にする理由はない。見た目も、人となりも、アルバート以外なら同じに見える。
さすがに暴力夫は困るけれど、そんな男を父が選ぶとも思えなかった。
念のため、五人目も見ておいた。
すると、五人目だけは他と違い、ラドニア王国から遠く離れた国の王族だった。
どうやら第二王子らしく、年はアイリーンより少し上。自国では珍しい赤髪を持っている。瞳も燃え盛る炎のように真っ赤だった。
「この方にします」
五人目を指して、アイリーンはきっぱりと言う。
父王が珍しく渋い顔をした。
「決めるのが早くないか? まずは全員……いやせめて、まだ一度も会ったことのない者とは顔合わせをしてはどうかね?」
「必要ありませんわ。私は、この方が良いのです」
もう一度はっきりと伝えた。理由は明快。その第二王子が、このラドニアから遠い異国にいる。ただその一点のみだ。
これならば、なおさらアルバートとは会えなくなる。
物理的な距離が、心の距離も作ってくれると信じたい。
「お父様、さっそくお手紙を書いてもよろしいでしょうか? この方とお会いしたいわ」
いつになく性急な娘に、父王は少しだけ面食らっている。
けれど、娘の瞳が本気だと気づいた父は、短く「わかった」と答えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます