第4章 追憶に優しさはいらない
第9話 必要な人
「菓子、ですか?」
訊ねられて、アイリーンはそうよと頷いた。
城の自室のソファに腰掛けながら、優雅に紅茶を飲んでいる。晩餐を済ませ、一日の疲れを労わるような癒される味に、アイリーンはほっと息をついた。
この後の予定は何もない。
だから自室に呼んだ己の騎士に、アイリーンはかねてより計画していたことを話していた。それが計画の直前になってしまったのは、彼に反対されるとわかっていたからだ。
思ったとおり、彼は信じられないとでも言うように眉間にしわを寄せている。
「何もそんな、殿下自ら菓子を作る必要はないのでは? 危険です」
「大丈夫よ。簡単なものしか作らないし、オルドリッジ侯爵夫人が教えてくださるそうだから」
「そういう問題ではありません」
生真面目な騎士は頑として譲らない。正直彼が反対するからといって、決まった予定は覆らない。
ユーインもそれをわかってはいるが、言葉にせずにはいられないのだろう。王女が、お菓子を作るなんて。
料理は刃物を扱ったり、火を扱ったりするから、どうしても危険が伴う。そんなことを敬愛する王女に彼がさせるはずもない。
ただ、アイリーンだって遊びでそれをするわけじゃない。これも立派な公務である。
「聞き分けてちょうだい、ユーイン。孤児院のみんなが美味しいお菓子を待ってるのよ? 頑張って作って、子供たちの笑顔を見たいじゃない」
「その御心は大変素晴らしいと存じます。ですが、それはオルドリッジ侯爵令嬢のお役目では?」
確かに、もともとはハンナの役目だ。侯爵母子が毎月やっている慰問の一つらしいのだが、今回はハンナからアイリーンも一緒にどうかと誘われた。
今まで孤児院を訪ねては、子供たちと一緒に遊ぶことしかしてこなかったアイリーンにとって、お菓子を作って持っていくというのは斬新だった。もちろん一も二もなく頷いた。
「別にいいじゃない。こういうのは誰の役目でもなくて、誰の役目でもあるものよ。作り方を覚えて、今度は王都の孤児院にも配りたいの」
王都内にある孤児院は、全部で二つ。そのどちらも王家が運営している孤児院だ。
これらの院は戦後間もなく、当時の国王によって建てられている。一時期は戦争孤児で溢れていたこともあったらしい。
「そういうわけだから、明日は侯爵家のマナーハウスにお邪魔することになってるの。本当はユーインについて来てほしかったのだけど、この調子では無理そうね。わかったわ、他の騎士を――」
「いえ、私がお供します」
「無理はしなくていいのよ?」
「無理ではありません。命に代えても、殿下をお守りする所存です」
眼光鋭く見つめられる。その本気の目に、アイリーンは少しだけたじろいだ。
「よ、よろしくお願いするわ」
たかがお菓子作りに命をかけるほどの危険はないと、誰か教えてやってくれないだろうか。アイリーンは切実にそう思うのだった。
翌日、お忍びということもあり、アイリーンは
侯爵の領地は王都の隣にあるため、日帰りで訪れることができる。なかには辺境を守護する侯爵家もあるが、オルドリッジは違った。
昔から何かと優秀な人物が多いため、歴代の国王が中央に置きたがったらしい。
そのため、王都の東隣がオルドリッジの治める領地となった。
しかも野心をほとんど抱かない性格まで引き継がれているらしく、彼らは王家に絶対の忠誠を誓っている。
だからこそ過去、アルバートがアイリーンの婚約者候補にあがったのだ。
諸外国とも比較的良好な関係を築けている今、求められてもいないのに他国に嫁ぐ必要はない。
じゃあ国内のどの貴族の許に嫁がせるかとなったとき、三つの家が候補にあがった。
オルドリッジは、その一つである。
といっても、それももう白紙になってしまったけれど。
「今日はお誘いありがとうございます、オルドリッジ侯爵夫人、それにハンナ」
「滅相もございませんわ。むしろおみ足を運ばせてしまい申し訳ないくらいですもの」
「そんなことはありません。夫人からお菓子の作り方を教われると聞いて、楽しみで仕方なかったんですから」
「ふふ、そう言っていただけると教えがいがありますわ。アルバートを先に待機させておりますから、さっそく行きましょうか」
「ええ、お願いしますわ」
ハンナと共に夫人の後についていく。さらにその後ろを、いつもより三倍は厳しい顔をしたユーインもついてくる。侍女はこの後に控えるお茶会の準備のため、別行動だ。
「ねぇ、アイリーン様」
「なあに? ハンナ」
ハンナとは、オーガストとの一件以来、会うのは二度目になる。
そして一度目に会ったとき、アイリーンは衝撃的な話をされた。
というのも、オーガストに夢中だった彼女だが、ある日を境に自分に見向きもしなくなったオーガストに、だんだん気持ちが冷めていったのだとか。
それどころか夜会で親切にしてくれた子爵に、なんと惚れてしまったと言う。
まさか彼女の惚れやすい性格が、ここで役に立ってくれるとは誰も予想だにしなかった。
妹の変わり身の早さには、シスコンのアルバートもついに額を押さえたとか。
「今日のロックウェル様、いつも以上に怖くない?」
「ああ……そうね、そうかもしれないわね」
誤魔化すように乾いた笑みをこぼす。
かも、ではなく。間違いない。いつもよりぴりっとしている。
それは、アイリーンがお菓子作りという初めての危険を犯すからだろうか。
それとも、オルドリッジ侯爵家にいるからだろうか。
(なんとなく後者のような気もするけど)
前世を覚えているアイリーンとしては、ユーインの心情は意外すぎて驚かない。
そう。本当に意外で、一周回って驚くとか驚かないとか、そんな次元の話をとうに越 えてしまったのである。
アルバートが何とも不憫ではあるけれど。
ちなみに、そのアルバートも、今回のお菓子作りには参加する。講師側として。
案内された先でアルバートの姿を確認したユーインが、さらに刺々しい空気を発した。
「……なぜ貴殿がこちらに?」
明らかに不機嫌な声色だ。
「えーと、それは俺も呼ばれたからなんだけど。とりあえずその、殺気をしまってくれるかな? なんで会った途端に睨まれてるの、俺……」
本当に、アルバートが不憫で仕方ない。
「アイリーン、助けて!」
こんなふうに助けを求められるのは、もう何度目だろう。
「ユーイン」
アイリーンがひと言名前を呼んだだけで、ユーインから殺気が消える。
二人が出会って間もない頃は、まだここまで酷くはなかったはずなのだが。
(あれね、アルバートが間違えすぎたのが原因ね)
冷静に理由を分析できるアイリーンは、そう結論づけている。
何度も何度もユーインを「エミリー」と呼んできたアルバートは、今世で彼女の生まれ変わりに随分と嫌われてしまったようだ。
(不憫すぎてこっちが泣きそうよ)
アルバートがしょんぼりしていると、アイリーンもなんだか元気がなくなってくる。
彼にはどうか笑っていてほしい。そう思うのは、アイリーンにとってごく当たり前のことだった。
「仕方ないわね。あなたにチャンスをあげるわ」
「え?」
こっそり耳打ちすると、アイリーンは夫人に話しかける。夫人はアイリーンの話に少しだけ目を瞠ったものの、最後には了承の頷きを返してくれた。
「ユーイン、お願いがあるのだけど」
夫人から視線を移して、アイリーンがにっこりと笑う。
「今日作るクッキーを王都の孤児院にも配ることになったから、あなたも手伝ってちょうだい」
急なお願いに、ユーインは珍しくぽかんと口を開けた。
王女の言葉にすぐ返事をしないなんて、通常の彼なら考えられないことだ。それくらい、アイリーンの言葉に度肝をぬかれたのだろう。
「殿下……? それはつまり、私にも菓子を作れと……?」
「そういうことになるわね」
「ちょっとアイリーン、それはさすがにかわいそうなんじゃ……」
アイリーンの無茶振りにストップをかけたのは、アルバートだ。
世間一般の考えから言うと、料理人でもない男性が調理をするなんて、あり得ないとされている。
むしろこの場にお菓子作りの講師として存在しているアルバートが、常識から外れていると言ってもいい。
妹を溺愛する彼は、妹のためにお菓子作りを学んだらしい。自分の作ったお菓子を、妹が笑顔で頬張る姿を見るのが至福なのだとか。
まあそのおかげで、ハンナのほうは作れないようだが。
だから今日、こうして講師としてアルバートも呼ばれているのだ。夫人だけでは手が足りないから、と。
「『かわいそう』……?」
アルバートの制止を聞いて、ユーインのこめかみがぴくりと動いた。
「それは、私のことでしょうか」
「え? いや、だってほら、誰にも不得意なことはあるって言うし。だから、ね?」
アルバートが慌てて弁明している。
しかしそれがユーインの神経を逆撫でしていることに、彼は気づいていないらしい。
(不得意なことはあるって言うし、ねぇ。さすが、ひと通りのことはなんでも出来ちゃうアルバートだわ。悪気なく言ってるんだろうけど、あれ、完全にユーインのプライドに火をつけたわね)
器用貧乏なのだ、アルバートは。基本的に教えられればなんでも出来てしまう。
それだと大成できないと言われるけれど、彼は大成したいとも考えていない。
アイリーンが心配なのは、そんな彼が、ときどき酷くつまらなそうに空を眺めていることだった。
(なんでも出来てしまうって、言ってしまえば、なんにも出来ないのと一緒だわ)
アイリーンはそう思う。
特に、アルバートを見ていると強く思う。
汗を流すほどの努力をせずとも出来てしまって、大きな挫折を味わったこともない。
逆に言えば、努力した先に待つ達成感や、挫けたことで得られる悔しさを、彼は感じたことがないのだ。
人は、達成感を味わうために、また頑張ろうと輝ける。悔しさをバネにして、さらなる高みを目指そうと必死になれる。
それらは全て、人生のスパイスだ。
平坦な人生は、見る人が見れば、きっと穏やかで羨ましくもあるのだろう。
けれど、実際にその道を歩んでいる人間にとっては、あまりにつまらなく、果ては生きる理由まで見失ってしまう。
(でも、アルバートにはユーインがいる)
アイリーンはそこに希望を見出した。
彼には幸せになってほしい。ずっと笑っていてほしい。
そのためには、人生は楽しいものだと知ってもらう必要があった。悔しいけれど、ユーインを紹介してからのアルバートは、それまでよりも生き生きとするようになったのだ。
(ごめんね、ユーイン。でもあなただってきっと、アルバートを好きになるわ)
彼の人柄に触れて、彼のことを知れば。
だって、前世では恋人だった二人なのだから。
「……」
胸の奥に生まれた痛みを、アイリーンはそっと押し込めた。
本当は、自分が彼を幸せにしたい。
でも。
(それは無理だもの。前世で痛いほど思い知ったわ。だから、ユーインが必要なのよ)
ぐっと唇を噛む。
うまく押し込められなかった痛みが、喉を焼く。それを冷ますように唾を飲み込むと、アイリーンは努めて明るく言い放った。
「さ、そうと決まればさっそく作りましょう。アルバートはユーインをお願いね」
「え!?」
「お待ちください殿下。さすがにそれは……」
「同性同士のほうが何かとやりやすいでしょう? これは命令よ、ユーイン」
命令、と言われて従わない彼ではない。
アイリーンが滅多に命令することがないから、余計に
アルバートは「冗談だよね?」と目で訴えてくるけれど、アイリーンは笑顔でそれを無視した。
「え、えっと、じゃあ、作ろうか?」
アルバートが恐る恐る声をかける。
苦虫を噛み潰したような表情だったユーインも、やがて諦めたらしい。
「…………よろしくお願いします」
彼はどこまでも真面目な男だった。
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