第3話 葛藤
ちょうどユーインがアイリーンの手にキスを落としたところにやってきた彼は、その目をぎょっとさせた。
彼の次の行動が容易に想像できたアイリーンは、さりげなく自分の手を引っ込める。
案の定。
「エミリーが膝なんかついちゃだめだろっ。ほら立って。ああ膝が汚れて……」
「アルバート、アルバート。ストップよ、アルバート」
「え?」
ユーインの膝についた埃を払っていたアルバートは、アイリーンの制止に手を止めた。
そうして、自分が何をしたか遅れて理解したらしい。勘違いでも何でもなく、頭上に刺さる冷たい視線に、彼の顔が青くなっていく。
「アルバート・グレイ殿」
「っ、はい!」
「どうやら貴殿は、王女殿下に対する礼儀をどこかに落としてきたようです。取りに戻られるがよろしいでしょう。出口はあちらです」
冷たく促されて、アルバートの口角が引きつった。ユーインの放つ冷気は、部屋の隅にいる侍女にまで影響を及ぼしている。
アイリーンは額に手を当てた。
「やめなさい、ユーイン。私は構わないから、まずその怒りを鎮めて」
「ですが殿下、彼は殿下に挨拶もなく、しかも何度注意しても人のことを別人の名で呼ぶような失礼な人間です。どう考えても殿下にはふさわしくありません。即刻縁を切るべきかと」
「そこまで!? いや、確かに名前を間違えたのは悪かったけど、別人ではないっていうか……」
「私の名はユーイン・ロックウェルです。もう三十二回目です、貴殿に名乗るのは」
「ああ、うん。そうだね」
はは、とアルバートが乾いた笑みをこぼす。
彼の言いたいことを理解できるのは、世界中どこを探してもアイリーンだけだろう。
だからアイリーンには、アルバートがこうなる理由も理解できる。
姿は違っていても、
だから、焦がれてやまない前世の恋人を、今世の彼に重ねてしまうのだ。
きっとアルバートは、まだ現実を受け入れられていないのだろう。
(無理もないわ。ユーインと会うまで、ずっと言っていたものね)
――〝俺、絶対エミリーを見つけるよ。見つけて、今世こそ結婚するんだ〟
前世で叶わなかった願いを、彼は今世にかけていた。
それが、蓋を開けてみれば、想い人は男に転生しているというなんとも悲しい現実が待っていたのだ。そう簡単に受け入れられないのも頷ける。
それでも最初の頃よりも、アルバートがユーインを間違える回数は減っていた。
「だいたいね、私とアルバートは幼馴染よ。いちいち挨拶されるほうが面倒だわ」
「殿下がそうやって甘やかすから、この男は調子に乗るのです。やはり距離を置くべきです」
そんなことを本人の前で言う彼も、なかなか失礼だとは思うけれど。
(まあでも、ユーインの怒る理由もわかるのよねぇ)
敬愛する王女に対する無礼はおろか、男の自分に対して女の名を呼ぶ。そりゃあプライドはズタズタだろう。喧嘩を売っているのかと怒鳴りたいに違いない。
双方の気持ちがわかるから、アイリーンはいつも頭を悩ませている。
(確かにユーインの言うとおり、離れたほうが私的にはいいのかもしれないわね)
最近頭痛が多いのは、間違いなくこの二人が原因だからだ。
「そうねぇ。距離を、ねぇ……」
ちらりとアルバートを窺えば、彼は勢いよく首を横に振っていた。
でもその理由は、アイリーンと離れたくないから、ではなくて。
(どうせエミリー様の生まれ変わりであるユーインと離れたくないから、なんでしょうけど)
アルバートはユーインを恋愛的な意味で好きなわけではないのだが、彼に見るエミリーの面影を求めて、よくアイリーンを訪ねてくる。
アイリーンを訪ねれば、その護衛騎士である彼とも、ほとんどの確率で遭遇できるからだ。
(ほんと、なんでこんな面倒くさい人を好きになっちゃったのかしら、私)
自分でもわからない。
前世の自分は、死に際、もう二度と恋なんてしないと決めたはずなのに――。
『リ、ジー……?』
今世で再会した彼が、前世の自分の名前を呼んだ瞬間。
『リジー!』
なりふり構わず抱きしめられて、一瞬で
太陽みたいに明るい笑顔は変わらなくて、その人懐っこい雰囲気も一緒で。
優しく細められる眼差しに、心がきゅうと甘く締めつけられる。
嫌いになれるなら、とっくに縁を切っていた。
「アイリーン? どうしたの、ぼーっとして。もしかして体調が優れない?」
アルバートが心配そうに覗き込んできて、慌てて思考の淵から戻る。
「違うわ。ちょっと考え事をね。それで何だったかしら、距離を置くという話だったかしら? 悪いけど、今のところそういうことは考えてないわ。ごめんなさいね、ユーイン」
アイリーンがきっぱり言うと、アルバートは喜色を浮かべ、ユーインは不満げな顔をする。
けれど、彼はすぐに腰をおり、丁寧に一礼した。
「差し出たことを申しました。申し訳ございません、殿下」
本当に、超がつくほど真面目な男だ。
「気にしてないわ。だからあなたも気にしないで」
「はい」
ふわり、彼が小さく笑う。その笑みを見て、アイリーンもまた微笑んだ。
きっかけはある意味不純だったけれど、彼を自分の騎士にしてよかったと思っている。
なぜならアイリーンは、ユーイン・ロックウェルという男を存外気に入っているからだ。
エミリーの生まれ変わり、だからではなく。
ただのユーインとして、気に入っている。
というより、ここまであからさまに親愛の情を伝えてくれる彼に、
そんなアイリーンの微笑みを見て、アルバートが少しの衝撃を受けていたことに、アイリーンは全く気づかない。
「それで、アルバートは何か用があったんでしょう? 何だったの?」
訊ねるが、どうしてか彼からの返事がない。
「アルバート?」
訝しげに名前を呼ぶ。
遅れて反応した彼は、誤魔化すように頬を掻いた。
「いや、そんな大した話じゃないんだ。ただ誰かに話したくなって、そうしたら君の顔が浮かんだから」
ほら、やっぱり。
彼はずるい。
そんな、彼にとってはなんてことないひと言で、アイリーンの心は綿毛のようにふわふわと浮いてしまうのだから。
本当に、なんて単純な乙女心だろう。
「じゃあちょうどいいわ。お茶にしましょう。私もこれから休憩だったの」
「本当かい? ああそうだ。ならこれ、お茶のお供にどうぞ。君の好きなスコーンを買ってきたんだ。最近人気の店なんだって」
「まあ! さすがねアルバート。そういう気遣いは、とっても女性のポイントが高いわよ」
「ポイントって……。まあでも、君の中のポイントが上がるなら、買ってきたかいがあったかな」
「……そうね、右肩上がりだわ」
ふふ、と笑みを貼りつける。こんな思わせぶりなことを言うのに、彼の好きな人は自分ではないのだ。
(大丈夫、わかってるわ)
自惚れたりなんかしない。
前世ではそれで失敗したのだ。彼の言動を真に受けて、過度な期待を抱いたこともあった。
そうして彼が選んだのは、自分ではない、霞草のように可憐で清廉な女性で。
悪いのは彼じゃない。
勝手に期待した、自分だ。
(だから、今世では絶対に期待しない。大丈夫、大丈夫……)
だって彼は、アイリーンの心を弄んでいるわけではなく、本心からそう思って言っているだけなのだから。
自分は彼の親友で、特別で、彼にとっては、想い人の次に大切な人間。
そう思ってもらえるだけでも、十分だと思わなければ。
「それで、聞いてくれるかい? 妹のハンナのことなんだけど――」
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