第三十七話 地下倉庫

 塗りつぶしたような一面の闇の中で、目をこらせば薄らと部屋の中が見える。向こうの壁には締め切られたカーテンが音もなくじっとしており、その手前に大きなベッドが置かれている。両手をぐっと握りしめて、リリーはごくりと唾を呑み込んだ。

 ここへ来て何を怖じ気づいているのだろう。そう自分を叱咤して、闇の帳に包まれたベッドへ近づく。一時も目を閉じることなく見開いて、そっと身を乗り出した。

 そこには誰もいなかった。

 夜着を纏った母の姿も、鴉も、なにもない。小綺麗に整えられたシーツと枕があるだけである。

 必死で辺りを見渡した。部屋は不気味なほどしんとしていて、自分と蜘蛛以外、生き物らしき息づかいは感じられない。

 やはり思い違いだったのだろうか。

 いいえ。リリーは首を振る。それなら母の姿がここにあるはず。

 目を閉じ、屋敷の中を思い起こす。どこか、何か隠された場所はないだろうか。三階の古い書斎、物置、二階の各部屋、一階の廊下と客間、数々の地下倉庫と書庫、食堂、キッチン――。

 はっと目を見開いた。戸口に立つ蜘蛛の方へ目を向ける。

「まだ、入ったことのない場所があるの」

 小さな声で囁く。かつて蜘蛛の姿を探していた際、入りかけて、使用人たちに追い出された場所があった。屋敷内は全てリリーの自由とされながらも、そこだけは決して出入りを許されなかった場所。

「行くわ」

 二人は廊下に出て、足音を忍ばせながらも夢中で階段を下りた。一階は更なるつつ闇であったが、『塔』にいた頃と同様の目を取り戻したリリーにとっては、夜光をまぶした薄闇も同然であった。

 階段を下りて左手へ進む。廊下を突っ切って、キッチンの方へ急いだ。その時突然リリーの腕が後ろに引かれ、蜘蛛の脚に絡め取られた。

 なに、と言う間もなく糸で口を塞がれる。暗闇での突然の仕打ちに心臓が止まりそうな心地だったが、同時に、微かに囁くような足音を捉え、思わず身を竦ませた。

 足音は、すぐ横の地下へ下りる階段から響いてくる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。硬直したリリーの身体を抱いたまま、蜘蛛はそろそろと横ばいに這い、糸で手近な扉を開く。

 そのまま部屋の闇に紛れて扉を閉めた。

 足音が廊下に響く。と、と、と……。しとやかな靴運びは扉のすぐ前まで迫っていた。リリーの背に冷たい汗が流れ落ちる。

 と、と、と、と。……

 息を殺して扉越しに耳を澄ませていると、足音は遠く廊下の先へ消えていった。キッチンとは反対方向である。思わずふらふらと力が抜けた。蜘蛛に抱かれていなければ本当に倒れていたに違いない。

 口に巻かれた糸が解かれ、リリーは思い切り息を吐き出した。

「ありがとう」

 やっとの思いでそう言って、ゆっくり床に足をつける。まだ騒がしい心臓の鼓動を必死で抑えながら。

「……行きましょう」

 扉を開けて、再び廊下へ出る。そして、なるべく足音を立てないように気を配りながらも、逃げるように足早に、廊下を急いだ。

 やがて二人は広間へ出た。広々とした空間を横切り、その向こうに続く扉の前まで急ぐ。扉に耳をつけ、中の物音をうかがう。

 確かなことは言えないが、少なくとも何の音も聞こえない。リリーは蜘蛛に向かってうなずき、くすんだ銀の取っ手に手をかけ、そっと戸を押した。

 闇の中にぼんやりと大きな棚や、木製暖炉が立ち並ぶのが見える。壁を背にしながら静かに中へ入り込み、そろそろと戸を閉めた。

 鍋や勺がずらりとかけられた壁を眺め回す。物が多いが、やはり生き物の気配は感じられない。それでも、ここしかないと感じていた。今まで使用人たちが必死で隠してきたこのキッチンには、きっと何かがあるはずだ。

 みしり。

 部屋の真ん中辺りに踏み入ると、足下がわずかに深く軋んだ。元々古い屋敷なので床も傷んでいて当然なのだが、ここは妙に深いへこみを感じる。そっとしゃがみこみ、両手で床を押してみた。蜘蛛もやってきて、同じように脚をかけて確かめるようにぐいと押した。

 みしみし。軋んでいるのではない、開閉しかけているのだ。その時、ふいに頭の中に黒い本の記述が浮かんだ。

 それはかつて魔女が人形を作る儀式を行っていた場面だった。場所は確か、キッチンの床下にある、大きな地下倉庫――

 思わず二人の目が合った。奇しくも互いに同じことを思い浮かべたようだ。リリーは闇に紛れた床に手を這わせ、冷たい金属のつまみを探り当てた。しっかりと掴み、ぐっと力を込めて持ち上げようとする。しかし思いのほかずしりと重く、リリーの身体が大きく傾いだ。慌てて蜘蛛が糸を吐き、扉を引っ張り上げる。ずずず、と開かれた扉の向こうからひやりとした風が吹きぬけ、リリーの頬やむき出しの腕を撫でていく。

 思わず身震いした。なんとなく、ここが当たりのような確信めいたものを感じた。床下には、更なる下へ続く梯子がかけられていた。意を決して、そろそろと足を下ろしていく。

 梯子は古い木でできており、長いこと誰も使っていないような、みしみしと不安な音をたてて揺れていた。落ちたらどうしよう、という懸念が頭をよぎるが、必死で考えまいとする。そろそろと慎重に、一歩ずつ梯子を下りていった。

 やがて足の底が床につき、ほっと胸をなでおろす。蜘蛛も頭上からするすると降り立ち、二人は改めて地下を見渡した。

 リリーは何度も目を瞬き、じっと凝視したが、今度こそ本当の闇黒だった。それは『塔』の中でも見たことのない、視界を分厚い布で覆われたような本物の闇だったのだ。

 焦って四方に手を伸ばす。右手の指先がふさりとした毛に触れた。蜘蛛だ。慌ててその脚を掴むが、どちらに行けば良いのか見当がつかない。

 何か細いものが腕を這い上った。思わずびくりと身を引きかけたが、それは蜘蛛の糸のようだった。糸はするするとリリーの腕を這い、首を伝い、目にぐるぐると巻きつけられていった。突然のことに何事かと戸惑っていると、目を覆う分厚い糸束越しに、ぼっと明るい光が差した。視界を閉ざされていても痛いほど眩しい。蜘蛛が糸で隠してくれなければ目を潰していただろう。

 そっと糸が解かれて、リリーは咄嗟に目を細めた。蜘蛛の脚の先に赤々と火が燃えている。彼は傍にあった棚を触肢でさぐり燭台を取り出すと、その芯に火を灯した。

 彼の脚の眩しい光が消える。辺りにはほんのりと目に優しい蝋燭の光だけが残された。

「ありがとう」

 小声で囁き、リリーは燭台を受け取った。古くくすんだ銀の取っ手があり、蝋涙の溜まった背の低い蝋燭が燃えている。それを前方に突きだして、闇に包まれた地下倉庫の全貌を照らしていった。

 右に左に、燭台を翳しながらゆっくりと進む。見上げるように背の高い棚が立ち並び、欠けた食器や濁った色をしたグラスにふやけた蜘蛛の巣がかかっている。それらを照らしながら進み、やがて突き当たりまで来たとき――リリーはひっと喉を鳴らした。大きな白い眼を飛び出しそうなほど見開いて、上を向いて硬直している。

 その目の先には背の高い大きな棚がそびえ立っていた。木製の段の一つ一つに、何か細いものが絡み合ったような塊がびっしりと並んでいる。目をこらせば木の枝や、屋敷内のどこかで拾ったのであろう針金などが複雑に絡み合っているのが見て取れた。そして、その中に、金色の鴉たちが身体を丸めて目を閉じている。

 リリーはふらふらと後ずさった。蜘蛛の身体にもたれかかりながらも、目だけは鴉の巣を凝視している。

 燭台を掲げれば、正面だけでなく、左右の壁にも巣の張られた棚がそびえていた。地下倉庫は鴉たちの棲家だったのだ。

 棚と棚の間に渡された木の棒には無数のエプロンがかけられている。その下には黒い靴がずらりと並び、屋敷内で何度も目にした、使用人たちの装いがそっくりそのまま保管されていた。

 その中に、一際目を惹く紫色のドレスがあった。おそるおそる近づき、震える指先で摘まんでみる。上等なベルベットの感触。間違いなく、母が身につけているものだ。その下には母が履いていた、金の刺繍の施された美しい紫の靴が置かれている。

 棚にずらりと並んだ鴉の巣。嘴を身体に突っ込むようにして丸まる金色の鴉たち。その中に「母」はいるのだ。リリーを出迎え、髪を撫で、愛していると囁いた、あの「母」が――

 ふいに背後で蜘蛛の動く気配がした。はっと振り返ると、地下倉庫の入り口に人影が降り立っている。暗闇の向こうで小さな火がゆらめき、人影の顔を浮き彫りにした。

「そこで何をなさっているのですか」

 静かなメアリの声が、地下に鋭く響いた。しとやかな足音が近づく。彼女は金色の瞳を優しく細め、口元には作り物のような美しい笑みを浮かべていた。

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