第三十六話 悪夢の先
証拠を探す。
とは言ったものの、それはとても難しいことだった。
父や顔の知らない妹たちのことを訊ねても、母やメアリは同じ答えを繰り返すのみである。父は出張へ、妹たちは留学へ。
父が仕事をしていたという書斎は、母の寝室を通らなければ入れないので調べることができない。
使用人に訊ねて、かつて妹たちが使っていたという部屋を覗いてみたが、ベッドや机がぽつんとあるだけで後は何もなかった。彼らによると、留学が長いので二人とも全て持っていってしまったのだという。
打つ手はないように思われた。
手持ち無沙汰でいるよりは良いと、自室でちょくちょく勉強に励んだ。文字を覚えていれば、何か手がかりが書き残されていた場合、読みとることができるからだ。
夜になって、メアリが文字を教えに部屋を訪れると、リリーが書いて捨てた紙の山に目を見張った。
「お嬢様、お勉強熱心ですね」
リリーの拙い文字を眺めながら感嘆の声を漏らす。
「この調子でしたら、すぐにでも簡単な文章が書けるでしょう」
実際その通りで、七日もすればまとまった文を読み書きできるようになっていた。とんでもない進歩である。元々、『塔』にいた際にメアリが本を読んでくれていたことが、彼女の理解を助けたのかも知れない。
褒めそやかされるたびに、リリーの心境は複雑になった。メアリは優しい。いつも自分のことを心配し、世話してくれ、こうして優しい言葉をかけてくれる。自分がかつて欲しくてたまらなかった温かい生活は、彼女のお陰で成り立っていると言っても過言ではない。
しかし、温かい生活に触れれば触れるほど、あの夜読んだ手記の内容が頭の中に鮮明に浮かび上がってきてしまう。
魔女の生まれ変わりである自分は、魔女の計画の一端を知らされたとき頑として拒んだ。自分につらく当たったからといって血のつながりを持つ存在を容易に消して良いわけはないと、本能的に感じたからである。彼らはそれを聞いて納得し、全てリリーの思いのままにすると約束してくれた。実際その通りとなり、母と共に安らかな生活を送っている。
――それが全て偽りであり、実際は全て失われているのかもしれない。
そう考えた途端、目の前のメアリの微笑みに思わず身震いが走った。自分の頭を撫でる母の手でさえ、手放しでは喜べなくなった。
もしも全てが自分の思い込みであるのなら、どうかその確信がほしい。
リリーは日中、屋敷内をうろうろしていた。使用人たちがすれ違いざまに今日のドレスを褒めてくれる。良い天気ですねと声をかけてくれる。それら全てが張りぼてに見えて、なんとなく人目を避けるようになった。
夜は蜘蛛の部屋で眠った。独りで眠ると嫌な夢ばかり見るのだ。母や使用人たち、屋敷の人間がみんな微笑みをたたえながら、やがてその頬に、額に、ぴしりと亀裂が入って崩れ朽ちていく様を次々と見せられる。最後は決まって廊下の端に立っているメアリに助けを求めるのだが、彼女はちらりとこちらを振り返ると、ばさりと鴉に姿を変えて遙か彼方へ飛び去ってしまう。途中で目が覚めて、夢の中の耐えがたい恐怖を思い出し、無我夢中で隣の蜘蛛の部屋に転がり込んだ。蜘蛛が見回りから戻ってきたとき、糸のベッドの隅でがたがたと震えながら身体を丸めているのを発見され、それ以来一緒に眠るようになっていた。
ある夜の事である。蜘蛛の身体に包まれながら、リリーは汗だくで飛び起きた。あの悪夢を久しぶりに見せられたのだ。
恐怖に引きつった顔で荒い息を吐いていると、蜘蛛も脚をぴくりとさせて起き上がった。何事か、という風に少女の背を撫でさする。呼吸が落ち着いてから、リリーは震える唇を開いた。
「鴉って……どうやって姿を変えるの」
夢の中では最後にメアリが鴉に戻る。金色の羽根をまき散らしながら羽ばたいて、屋敷の外へ飛び去ってしまう。朽ち果てていく張りぼての母や、使用人たちに囲まれて、逃げ場を失った自分はいつも決まって目や耳を塞ぎ、夢から覚めるまで絶叫する。
「あのお母さまは……」
流れるような金の髪を持ち、こちらを振り返り温かな笑みを振りまく母の顔は、ぴしりと亀裂が入り、瞬く間に崩れていく。だが今夜はそれだけに終わらなかった。深い亀裂が入った向こう――仮面が剥がれたその奥に、鋭い金色の瞳が覗いていたのだ。
口にしかけて、ぶんぶんと首を振る。まさか、そんなはずはない。
鴉が母に擬態しているなんて、そんなことは……。
その恐ろしい思いつきは、思い込みだと片付けるにはあまりに現実味を帯びていた。唇を震わせ、大きな白い目をいっぱいに見開いて、蜘蛛を見上げた。
彼も自分を騙しているのだろうか。家族と一緒に屋敷に住みたいという願いよりも魔女の命を重んじて、偽りの家族で自分を囲っているに過ぎないのだろうか。
リリーはベッドから飛び降りた。靴も履かず、すたすたと真っ直ぐに部屋の出口へ急ぐ。後ろからするすると糸が伸びて腕を掴まれた。
「は、離して……」
糸を腕に巻き付けながらこちらを見つめる六つの眼が、急に恐ろしいものに見えた。身体がすくみ、怖じ気づきそうになるのをなんとか堪える。
「メアリが言っていたわ。鴉は、朝に備えて夜には擬態を解くって……。今行けば、全てがわかるかもしれない」
その言葉に蜘蛛もはっとしたようだった。少女に巻き付かせた糸を引くか、緩めるか、迷っているように見える。
「お願い、行かせて」
――今行けば、全てがわかるかもしれない。
その言葉は、蜘蛛の身体に電撃を走らせたようだった。鴉の生態について事細かには知らないが、魔力の解ける瞬間があるのなら、その姿を押さえてしまえば真実にたどり着いてしまう。
全てを知った少女の絶望に満ちた顔を思い浮かべて、たまらず糸を引きそうになった。やはりこのまま彼女を行かせたくはない。だれか忘却の術を持つ獣を探すなどして、なんとかして彼女の疑惑を消してしまえないだろうか。
だが目の前に立つ少女は、痛々しいほど青白い顔をしながらも、自分の中の恐怖と必死に闘っていた。彼女は聡い。真実など自身が一番見たくないだろうに、偽りの家族の疑惑に対し懸命に立ち向かっている。
その姿を目の当たりにして、どうして止めることなどできるだろうか。
蜘蛛と少女を繋ぐ糸は、ぴんと引かれながらもやがて緩み、するりと床に落ちた。リリーは自由になった腕で扉を開く。
メアリが灯りを消したおかげで廊下は濃い闇に満ちていた。リリーはぎゅっと目を閉じる。かつて『塔』にいた頃そうしていたように、全身の感覚を呼び覚ました。再び目を開き、確かめるように辺りを見回す。薄らとだが、廊下を囲む壁と床の境目が判別できるようになった。
部屋から足を踏み出すとき、ちらと後ろを振り返った。確かめるような、どこか縋るような光が揺れる。蜘蛛もゆっくりと進み出した。リリーの小さな背に、触肢の先でふわりと触れる。
彼女は廊下に歩み出て、音を立てぬよう慎重に扉を閉めた。後ろ手に手を伸ばして、蜘蛛のふさふさとした体毛に触れた。ここにいる、と蜘蛛も触れ返す。短いやりとりが終わり、リリーは歩き出した。
裸足で一歩踏み込むたびに床木が微かに軋む。その音にさえ細心の注意を払いながら右手に進み、突き当たりの扉の前まで来るとぴたりと足を止めた。
扉には細い磨りガラスがはめ込まれている。今は光が消え去り、母は完全に床についている。
リリーは再度蜘蛛をちらりと振り返りながら、ゆっくりと手を持ち上げた。躊躇いながらも扉の取っ手に触れ、それから、思い切り強引に扉を引いた。
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