第三十五話 後夜の決意
『魔女の体液を啜った蜘蛛の身体は、翌朝になると元の黒い色に戻っていた。だが、魔女の力を得たことで手に入れた身体の肥大化や、魔力を持つ金の糸は健在であった。変化は身体の色だけではない。金の身体を手に入れた他の生き物たちは、皆太陽の光に晒されると灰となって消えゆくのに、この黒い身体だけは平気なようである。
彼がその後どうなったのかは定かではない。私は今、旦那様の寝顔を横目に見ながらこれを書いている。
私の身体は森の獣たちによって守られていた。私自身についての記憶はないが、魔女が自らの血肉を使ってこの身体を作ってくれたことは知っている。それどころか、魔女としてこれまで歩んできた長い人生についても覚えている。私は人形だが、紛れもなく魔女の魂を受け継いでいた。
計画を進めるために、成長して屋敷を継いだ旦那様に会いにいった。彼は私を見るなりすぐに見初めてくれた。何もかも思惑通りだった。
妻として彼の仕事を支えながら子を成した。何度産んでも普通の子供だ。神秘の白い見目を持った子供はまだ産まれていない。
時が経って私の肉体が寿命を迎える時もまだ現れないかもしれない。それでも、私の子が屋敷を継ぎ、妻を娶り、また子を産み、それを繰り返した先に、きっと現れるに違いない。森の生き物を従え、この屋敷を取り戻す魔女の生まれ変わりが。
屋敷の地下室には古い文献が山ほどある。旦那様は興味がないのかあまり下りないが、私はよく足を運んでいる。私のような人形を作る術をはじめ、古の呪いについて書かれた本が点在しているからだ。その中にあった、血の術を使って、今これを書いている。
私の肉体は確かに人間だが、血と魂は魔女のものである。だからこの血で書き綴る文字は必ず次の魔女に伝わるであろう。他の者には決して見ることができない、秘匿の術なのだから。
私は今後も魔女の人形として生を全うする。魔女の計画は誰にも邪魔はさせない。それが例え、次の魔女の生まれ変わりだったとしても。
万一次の魔女が計画を拒むようなことがあっても、彼ら獣はあらゆる手段を講じて成就させてくれるだろう。そのようなことは無いと願うばかりであるが……』
手記はここで途絶えていた。最後の文字の端が赤茶に掠れて伸びている。この文字は血で書かれていたのだ。手から黒い本が滑り落ちた。
リリーは白い眼を大きく見開いたまま硬直していた。読んでいる最中に涙をたたえていたようだが、衝撃のあまりそれすら乾いている。
蜘蛛もまた、己の出生について考えていた。手記に描かれていた小さな蜘蛛はおそらく自分と関係がある。先祖だろうか。この特異な身体は、彼が魔女の体液を啜ったことで手に入れたものだというのだろうか。
うつむき肩を震わせるリリーの顔色をそっと窺う。唇をぼんやり開いて、ぐるぐると何か思案に暮れている様子である。
リリーの取り落とした本を摘まみ上げ、最後の頁をもう一度開いた。字を読むことはできないが、ふと思いついて、金の糸を赤茶の文字にするすると這わせる。するとたちまち言葉が頭に浮かんできた。手記を読んでいて単純に思いついただけなのだが、なるほど便利なものだ、とひとり感心してしまう。
この手記を書いた人物――即ち、魔女の作った生き人形の最後の記述によれば、次の魔女が計画を拒んだときは、獣たちはどんな手を使ってでも――つまり騙くらかしてでも成就させよということである。
次の魔女……リリーの姿を目にして、嫌な予感を覚えた。彼女の頭の中で今まさにぐるぐると巡っているものが何か、なんとなく察せられた気がしたのだ。
リリーは顔をうつむかせたまま、ゆっくりと口を開いた。
「おかしいなって、思ってた」
開け放した窓辺から冷えた空気が流れ込み、張り巡らされた糸を揺らす。リリーの瞳も揺れていた。
「お母さまは、わたしのこと、とても嫌っていた……お父さまも、お屋敷にいた妹と思われる子たちも。それで、帰ってきたらお母さまだけになっていて、何もかもなかったように、わたしを愛してくれる」
ぼうっと取り憑かれたような虚ろな目であった。どこを見ているのでもなく、ただ記憶の中を彷徨っているようだった。
「何もかも、わたしの望んだ通りになった。だけど、もしそれが、わたしの目を騙している、ただの幻だとしたら……」
その時、するすると糸が伸びて少女の口を塞いだ。極力優しい力ではあったが、ショックのあまりリリーは身体を引きつらせる。
やはりあなたも、わたしを……!
手足をばたつかせようとしたが、蜘蛛の身体が覆い被さり、身動きが取れない。
その時、ふいに廊下の床の軋む音がした。
足音である。軽く、囁くような足取りはメアリのものに違いない。ゆっくりと部屋の前を通り過ぎていく。やがて、足音は引き返して、来た道を戻っていった。
蜘蛛の身体が離れて、口を縛っていた糸も取り去られた。顔を恐怖に引きつらせながらリリーは悟る。今の言葉がメアリに――鴉に聞かれまいとする、蜘蛛の咄嗟の優しさなのか。
「……やっぱりおかしいわ。あの夜、何があったの? あなたは全部知っている?」
こうして訊ねても、彼は意思疎通の術を持たない。魔女の血を得た代わりに、蜘蛛に与えられた力の一部が失われているからだ。
「わたし、屋敷を見て回ろうと思うわ。何か――何か、真実に近づくための痕跡が残っているかも知れない。もちろん、そういうのは全て処分されて、本当に何もないかもしれないけれど……」
それでも、この疑惑を見て見ぬふりして、幸せに暮らすなんてできないから。
「お母さまと本当の意味で和解して、お父さまは追放されて、妹たちは留学していて。本当にそうだとしたら、そうだという証拠を見たいのよ」
リリーの力強い眼差しを前に、止めることなど蜘蛛にはできなかった。
あの夜何があったのか、蜘蛛は知っている。獣たちが出張から戻る父を殺し、妹たちを殺し、鴉がそれに擬態して母親を殺害し、偽りの親子になりすましているなどと、リリーが知ったらどんなに傷つくだろう。
できれば知らないでいてほしい。だが彼女は聡く、のらりくらりとごまかし続けるには限界がある。心にちくりと刺す疑惑をどうか無視して、幸福な家族の幻影に酔いしれていてほしいのに。
以前、鴉にリリーの抱いた疑惑について忠告しようかと思ったこともある。だが、それを知った彼らがリリーに何をするだろう。魔女の命を絶対とし、産まれた子供を幾度も見捨ててきた彼らが。
急にぞわりと悪寒が走った。そして思わずリリーの肩を抱き寄せた。
彼女が真実を知ろうが、知るまいが――
自分だけは、リリーの味方であろうと思う。魔女ではなく、魔女の生まれ変わりでもなく、リリーという少女ただひとりの。
小さな少女の身体を抱きながら、かつて同じように魔女を愛し、悲しみに暮れながらその命を啜り取った先祖へ思いを馳せた。
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